舞い散る日々のなかで踊れ

散財していくタイプのおたく。

それでも呼吸は続いていく──「そして僕は途方に暮れる」観劇

3月20日(火) Bunkamuraシアターコクーンにて「そして僕は途方に暮れる」を観劇した。ネタバレ含むので知りたくない方はご注意願います。

わたしは兼ねてからこういう役を演じる藤ヶ谷くんを観たいと切望していた。

ふだんはアイドル=きらきらを体現するかのごとくステージに立ち続けつつも、真面目で努力家であり、完全無欠の好青年さを崩すことのない彼が時折垣間見せる影のようなものを暴いて剥き出しにするような役が来ないだろうか、とずっと考えていた。おそらく藤ヶ谷くんは概ね好青年であると思う。あくまで表面しか知らないけれど、あれがすべて作られた虚像だとはまったく思えない。人知れず葛藤したり苦悩する日々は当然あるにせよ、きちんとしたひとだという印象はこの5年ほどにおいて変わっていない。けれど、どこか危うげな雰囲気があるのもまた感じていて、生まれついての陽性とも言い切れないその微妙な部分に意味を見出すような、そんな作品に巡りあう瞬間をどうにか見ることができないものかと切々と考えていた。

役の性格や方向性は今回とは違うかもしれないけれど、それを観ることができる期待感は「コルトガバメンツ」にもあった。ただ、わたしはチケットを外して結局一度も観ることができなく、それはジャニヲタ歴の中で唯一と言っていいほどの後悔であり、ある種のトラウマのようなもの、というか、あれを見逃してしまったことによってできた穴のようなものは、結果的に「ジャニーズオールスターズアイランド」までわたしを舞台から遠ざけた。そういう後悔を二度としないように行けるかぎりは見逃さないようにしようと考えるのがふつうなのかなとも思うし、そうしたほうがいいのだろう。今になって考えるとどうしてそんなに「コルトガバメンツ」以外の舞台に立つ藤ヶ谷くんを観ないことにこだわったのか、理由もあいまいだ。ただただそうだったとしか言いようがなく、ひとつひとつの仕事にていねいに向き合う藤ヶ谷くんに対して、失礼極まりないような応援の仕方だということも重々承知している。わたしのただのエゴだ。

さて、今回の「そして僕は途方に暮れる」の藤ヶ谷くんの役どころは、一言で言えばクズだった。自身のことをクズと自覚しているわたしが「うわ、こいつくっそクズやな」と思ってしまうほどのどクズだ。悪い奴ではないと思うけれど、クズの自覚がないところとクズの自覚があるところが同居しているような具合で、彼女(前田のあっちゃん。かわいい)よく何年も付き合って同棲までしてるね???って思ったのわたしだけじゃないはずだと確信している。いや待てよ、でもわたしすきだったらクズでも許しちゃうからな…って思ったけれども、それは考えるのをやめよう。

この作品における彼(アラサー)の保有スキルは「(原因は自分にあるのに、それを責められたり怒られたりするのが嫌で話を逸したりごまかしたりしながら)とりあえず物理的にその場から逃げ出す」だ。

誰しわたしも逃げたいときはある。物理的に。たまに逃げてしまうときもある。つぶれてしまうくらいなら、むしろ逃げたほうがいいときだってあるし、ほんとうに嫌なことからはきっと逃げたってかまわないのだ。むかし勤めていた店舗で、先輩がひとりで閉店作業後、受付に退職届をそっ置きしたのか叩きつけたのかは知らないけれど、とにかくそれだけ置いて、翌朝から出勤しないなどという離れ業を見せたときから、今日に於いても仕事で追いつめられた時、そうしてしまおうかと沸点に達しそうになる瞬間がある。でもわたしは今日に至るまで一度もそれを実行できていない。

逃げてしまったあとのことを考えると、なかなかそこまで突き抜けられない。放り出すことはかんたんな解決方法に見えて、あとあと自分の首を絞めることのほうが多いだろうからやめておこう、とわたしは思ってしまう。いかんせん「逃げちゃダメだ逃げちゃだダメだ逃げちゃダメだ…やります!僕が乗ります!」*1を発想してしまう人間(おたく)としてはことさら。そしてデーンデーンデーンデーンドンドン「状況は!?」という具合でなんとか生きている。とはいえ、カジュアルな逃走はたまにやってるね。どうしようもなくどうしようもない日に早退とか。あは。適当にやってるのかもしれない。いいわけが許されるならば、それは逃避ではなく、建て直しをはかるための戦略的な撤退とも言える。それと最近はまれに「考えることを脳が拒否する」モードがあって、物事の輪郭を捉えつつもただ頭にそれらが入っては流れて漂っているだけ、という状態が発生する。これも一種の逃げかなあ。でも、うーん。いただけない。ただでさえ乏しい思考力、知的生産術、感受性、情緒。それらが死んでいく気がする。

そんなことは置いておいて、むかしでは画期的に見えたその手法も、今ではよくある話として片付けられるし、そもそも退職届すら出さずに消えるというし、現在の職場でもそういえば何人かバイトがそうやって消えたなと考えると、インスタント逃走劇ってのはもしかしたらわりとスタンダードになっているのかもしれない。

藤ヶ谷くん演じる裕一は、じぶんの醜さをあけっぴろげに見せてまで浮気疑惑について問いただす恋人との対話から逃げ、家に置いてくれた友人に振る舞いを窘められたことから逃げる。依存を深めれば深めるほど、反動のようなそれに耐えられなくて、先輩を頼り、友人に注意されたことだけは直してそこで居候するも浮気の偽装工作に一枚噛まされたことをめんどうがられ、後輩に「逃げ続ける裕一さんまじかっけーっす!なかなかほかのひとにはできないっすよ!」と煽られ、また彼は逃げていく。

冒頭、スクリーンに裕一のスマホ画面が映る演出で、姉と母親からの連絡を無視しているのがわかるのだけれど、結局行くあてのなくなった裕一は姉を訪ねて詰られ、母の元に帰るも離れていたあいだに変化を遂げていた母親からも逃げる。

このあと裕一は同じく色々なことから逃げている父親(クズ)と再会し、行き止まりに当たったかのように思えた。ふたりでこの世の果てのような狭いアパートの一室で生産性のない日々を送り、社会の歯車から外れ続ける。想像するにこれはおそらく、感じているかいないかはべつとして、深い孤独だ。つぎつぎに人間関係を絶って頼る人間がいなくなっていくことでじりじりと感じていく孤独の最果てだ。はじめは開放感に満ちていても、徐々に存在が浮遊し、現実世界と自分とが乖離していくような感覚。それをよしとする瞬間と焦燥を覚える瞬間のせめぎあい。それらがあのアパートの一室にあったのではないかと思う。受動的で、だけど能動的になるフックもなく過ぎていく日々。きっとそれでもよかったし、このままではだめだと思っていたのだと思う。

そんな日々を送る裕一をかつて取り巻いていた人間の日々も合間に描かれる。恋人は裕一からの連絡がないことを怒っていて、友人はそんな恋人をなだめ、先輩はバイトに穴をあけた彼に「殴る」と息巻いている。母親は心配して姉に電話し、姉は友人に連絡を入れる。それぞれが心のどこかに裕一を置いている。はずだった。

クリスマスの日、父親の言葉をきっかけにして恋人の留守電に今は父親と暮らしているという報告と、細かいことは忘れてしまったけれど、たしか心配かけて申し訳ないだったか時期がきたら戻りますだったか…とにかく(えっほかには?それでいいの?)とわたし自身は感じた伝言を吹き込む。

いつかは戻るつもりだけど今は逃げている。

でもいつかがわからないからまだ逃げている。

どうしたらいいかわかんない。

だけどいつか戻るから待っていてください?

なんてモラトリアム。そんなに暇なのはお前だけだ。

いや、モラトリアムという事象を否定する気は毛頭ない。たぶんあれも必要な過程なのだ。だけど、他人の時間は自分のそれとおなじ動きではないだろうと。と、思ったんだけど、人間、時として自分の都合のいい解釈するよね。わたしもだ。だけどね。時は刻々と流れていく。裕一は変わらないかもしれないけれど、世界も、事態も、他人も刻々と変わっていく。閉じた世界で二酸化炭素を生成するだけの彼にはわからないだろうが、他人はもしかしたらもっと有益なものを生み出しているのかもしれないし、もっと言えば三次元が四次元に変わっているくらいの劇的な景色が広がっている可能性すらあるのだ。

その伝言を聞いた恋人が力なくそれを友人に伝え、友人は姉に、姉は母親に伝える。それぞれが「まあそう聞いたから一応報告ね」的なニュアンスで。そして観ている側はきっとそうしてなにかがすこしずつ変容しているのを知る。

そんなモラトリアムを体現する裕一にも、ついに能動的になる瞬間がやってくる。自らが奮起したというより母親が倒れたという留守電が恋人によって残されていたからである。こたつに入ったまま「俺はめんどくさいから行かない」と言う父親に「あんたみたいにはなりたくねー!」と啖呵を切って走り出す。走り出したはいいものの、人間はそうすぐには変わることができない。裕一の地元まで母親の様子を見に来た恋人と、年末で帰省していた友人、姉と再会し、母を伺い実家に戻ってはみたものの結局何も言い出せず、立つ瀬もなく部屋の隅でスマホを触り出す始末(アラサー)。その横では微妙な空気感を漂わせ皆が一様に気を使った会話劇を繰り広げているというのに。わたしはもうずっといらいらしていて、はらはらしていて、とてもじゃないけれど裕一に感情移入もできないし、そういう空気感にぞわぞわしてしまうし「なんでもいいから早くなんとか言え!一言でも!」という気持ちが最高潮に達したとき、ぶち切れた姉(江口さん最高)の言葉や恋人の同情めいた言葉に誘われ、裕一がぽつぽつ語り出す。一言で言ってしまえば「どうにかしたいんだけどどうしていいかわからない」と泣いて訴える。

まあ…そう、だよね…そういうときあるよ…うん…

わたし自身も絶対的に感じたことのあるその閉塞に一定の理解を示しつつ、憐みの気持ちさえ持ってしまうわたしは、そのあやふやすぎる時期を超えることができたのかもしれないとも思えたし、あるいは共感能力をなくした冷徹な人間なのかもしれないと思った。それは果たして成長と言えるのか、それとも退化しているのか。彼の言葉をこころでろ過することによってせまる自分の現在のすがたはなかなかしんどい。ただ、この演技を絞り出す藤ヶ谷くんのすがたは胸にせまった。わたしを揺さぶったのはそれにたどりつくまでに悩み苦しみ抜いたのだろうという藤ヶ谷くんの逃げることのない真正面の挑戦だった。しかし当の裕一の「怒られるのが嫌だ」という瞬間的な感情のままに向き合うことから逃げ、思考を放棄し、それによってまわりの人間にもたらした感情を一切無視し、2か月ほど経つというのになにも総括できていないこのザマにわたしは途方に暮れた。わたしならここで線を引いてしまうけれど、やさしいひとはちがうのかな…いや、だけどお姉さんは完全に線を引いたように見えたぞ…というかそもそも留守電の時点ですでに皆に見放されてた感あったよね…いや、でも彼を掬う方法だってあるはずだ…(以下無限ループ)

だけどそれでも世界は続いていく。まわりの人間が再構築してくれる。去り際の友人が裕一にくれた言葉は彼にとってこれからをも予感させる救いだっただろうし、突然の親父の乱入により、大晦日にひさびさに一家団欒のかたちを為したこともあり、裕一は東京に戻ることを決める。先輩にも連絡し「また飲みにいこう」と言われ、彼は変わっていなかった世界に安堵したのだと思う。その証拠に、彼は恋人の家に戻る。戻ってベッドに横たわる。そこへ恋人が帰ってくる。物語が出勤していく恋人と寝起きでベッドに転がる裕一からはじまったように、その風景へ戻っていく。

かと思われたけれど、とめどない違和感が部屋を満たしていて、その正体が浮気尋問の際に「都合が悪くなると訊かれてもいないことまでしゃべるよね」と言った恋人そのひとが、裕一がこれまでのことを話そうとしているそばからさえぎるように関係のない話を繰り出していることだと観ていて気がつく。それでも彼は変わらなかった世界でじぶんを変えようと、話し出す。しかし彼女は言う「裕ちゃんはもうなにも言わなくていい」と。ここから世界は一気に反転する。

彼女の世界にもう彼は存在していなかった。好きなひとがいる、そのひととこれからも会いたいからもう別れたい、途中からあなたのことなんてどうでもいいって思ってたなどと彼女から告げられたうえに「なんでも訊いてください、逃げずに答えます」と泣きながら宣言される。想像できたし、できればはっきり聞きたくなかったけれど、その相手は友人だったし、実家であたたかい言葉をくれたはずの友人が実はあのときすでに恋人とホテルにまでいく関係を結んでいて、彼女が裕一に話したらじぶんも話すという、すごくわかるんだけどなんとも微妙な小狡さを発揮していて、裕一のメンタルがぐりぐりえぐられていくのがわかって苦しくて息をとめた。まあ、そらそやろ、自業自得やろ、って言うのはかんたんだけど、じぶんの人生の中でそうやって自業自得で失ってしまった数えきれないほどのものを思い、吐き気を催さんばかりの自己嫌悪に襲われた。ああいやだ…こんなにむきだしになんてなりたくないのに。どうにか蓋をしていたものをむきだしにされたうえに無防備なそれを引きずり出されて素手でつかまれてつぶされている気分だ。ああ…もう…嫌なことから物理的に逃げ出すことと、見ないふりしてどうにか立っていることとどう違うのだろう。結局のところ解決に至ってはいないという点においては、根本は同じなのではないかとさえ思う。どちらにしろもうそこへは戻れない。

逃げて逃げて逃げ続けてしまった先になにがあるのか。それはわからない。なにもないかもしれないし、新天地が現れるのかもしれない。覚悟しなければいけないことは、振り返ったとき、うしろにはきっともうまるで知らない世界が広がっているということなのだろう。あるいは、見ないふりをしているうちにいつのまにか。彼を否定することは、なんだかじぶんを否定することに思えて、ずるいわたしは結局彼を肯定する。真正面から向き合うこと、考えることを放棄し、まわりをないがしろにしたことがわたしにも確かにたくさんある。結局さっき情けないと吐き捨てるように思った彼はただのわたしじゃないか、と泣きたい気分だった。だけど、どれだけ失敗し、死ぬほど後悔しのたうちまわって痛い思いをして、たとえそれを胸の奥底に沈めていたとしても、なくなったわけじゃない。なにかのきっかけでそれがあふれ出し、選択を変えることもある。そのくりかえしでなんとか前に進んでいるのではないか、ミリ単位でも成長しているのではないかという実感と勘違いをくりかえし、折り合いをつけながら生きてきたこともたしかだ。

短絡的な行いによって、瓦解するこれまでの世界。そのがれきのうえでひとり、彼が見たのは絶望の景色だったかもしれない。だけど呼吸が続くかぎり、それは希望になりうるのだと、いや、それこそが希望なのだとわたしは思いたい。終わってしまったもの、壊してしまったものを思いながら、建て直し、あたらしくはじめる。そして再び躓いては立ち止まり、それでもまた歩き出す。生きていくことはその途方もないくりかえしだ。どれだけ落とし前がつけられるのかもわからないし、いびつなまま終わってしまうのかもしれない。じぶんをどれだけすきになれるのかもわからないし、きらいなところは存在し続けるにちがいない。また誰かを傷つけてしまうかもしれないし、なにかを失い続けるだろうし、孤独と無縁になることはない。それでも生きているかぎり、と終幕前、光のむこうへ肩を落として歩いていく裕一のすがたを眺めながら、その先も彼の呼吸が続いていくことを願ってやまなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:新世紀エヴァンゲリオンの主人公:碇シンジくんの台詞