スマホを壊しただけなのに
スマートフォンがとつぜん壊れた。
よくある症状らしいが、わたしのスマホは、SONYとdocomoのロゴをひどく熱くなりながら延々とくりかえして充電を使い果たした。数分間冷凍庫にいれてみたり、丸1日放置して再起動を試みたけれど、事態は変わらなかった。
さて、どうしよう、である。
多少重くなっていたとはいえ、前日までなにごともなく動いていたので、バックアップや引き継ぎの準備もなにもしていない。画像はSDカードに移していたけれど、電話帳はバックアップした覚えがない。加えて憂慮すべきなのが、2週間後に迫ったライブのデジタルチケットをすでにアプリで受け取ってしまっていたということだった。
4年ほど今の機種を使っているけれど、本体交換と画面修理を1回ずつしている。そのときは奇跡的に動いた一瞬を利用してバックアップなどをした。今回に関しては最悪すべてを失うかもしれない、と思った。
もしもLINEの引き継ぎが無理で、電話帳もなくなったら…と仕事中にずっと考えていた。Facebookもしていないし、Twitterなども現在は匿名でやっているのみなので、リアルと繋がりはない。とたんに世間から隔離されていくような感覚に陥ってうろたえたけれど、よくよく「なにがなんでも連絡をとりたい人」にフォーカスしたら、それほどはいないよなって思って、そのひとたちの連絡先を知る手段が見つかれば、電話帳は諦めようという境地に達した。
なんか人生出直そう、って心境になった。
もしもばったり会うことができて、携帯壊れたのって伝える機会があればありがたいけれど、不可能なひともいる。でもそういうひとってそもそも連絡とらないしな…いや、もうきっとそこまでだったんだと、潔く諦めることを決めた。
むしろ、たかが電話ひとつにふりまわされている状況にはっとし、いや、もう(文鎮化するくらいなら)スマートフォンいらねえよって投げやりにもなったし、今日電話が壊れているとしても、このさき新しく誰とも出会えないわけでも話せないわけでもないだろう、そんなの電話の有無とはまったくべつのところで生まれることじゃないか、と、謎のポジティブを発揮しているうちに、スマートフォンが使えない状況に慣れていた。
スマートフォンが壊れると、ほんとうにスマートフォンはもはやわたし自身だな、と感じる。どういう人生を歩んでいるか、この世の中でどういうかたちを為しているのか、そしてそのかたちをどう世の中に預けているのかはっきりとわかる。ふだんから、スマートフォンはわたしに添うように、機能の幅を狭めていて、もしかしたらスマートフォンとしての機能を100%発揮できないわたしの元でストレスを溜めた結果、よく不具合を起こすのではとすら疑った。
考え抜いたあげく、なんとか連絡がつく手段とネットワークに心当たりができたので、あとは問題のチケットである。これに関してはアプリ元に問い合わせたら、代替機からログインしてから連絡をくれ、と言われたのでチケットが大丈夫なことはほぼ確定し、もう初期化してもかまわなくなり、Xperiaコンパニオンから修復するか迷ったものの、これ以上なにか起きたら困るのでおとなしくショップに持って行った。
代替機を借してもらい、LINEをインストールし、ログインするといつもどおりの友だちリストが画面に表示され、未読のメッセージは読めた。電話番号を変えなければ旧端末で引き継ぎ設定をしていなくても大丈夫だと知らなかった。電話帳も、クラウドの同期をしてみたらなにごともなく元に戻った。
安心すると同時に、どこか拍子抜けしたようなじぶんを感じ、もしかしたらわたし、なにもかもを手放したかったのかなと思った。
手放したい、と思うことのなかに誰かの連絡先が含まれることがものすごく失礼な話だととられるかもしれないけれど、手放したいのは誰かや誰かの連絡先そのものではけしてなく、わたし自身だ。わたし自身の過ぎたもの、イメージ、抱えてしまった不要なもの。
まぎれもなくこれまでの積み重ねと、そのときどきまわりにいてくれたひとのやさしさがあったからここまで生きることができている自覚はあるけれど、わたしはつねに今が好きだ。じぶんのことを、人間向いてね〜と常々辟易したりがっかりしたりしても、昨日知らなかったものを今日知ることや、1時間前にはなかったことが5秒後に起きて、もうそのまえのわたしには絶対戻れずに変質している、という生き物的感覚はわりと気に入っていることのひとつである。
むかしは、変わることが怖かったし、変えることも好きじゃなかった。今も、環境の変化には弱いし、頑固だし、内面の執着や情によく引きずられる。だけど、ひとは変わっていいんだと思うようになった。いつのまにか、とか、知らないうちに、じゃなくて、もっと無鉄砲に野蛮に、軽率に。そんなに怖いことではないのかも、と思う。
あまりにも一貫性がなくなるのはどうよ、いや、やばいだろって場面も往々にしてあるので、そのへんは改悪にならないようにちゃんとするとして!
LINEをインストールしなおしたことで、なにか相手側に表示が出たりしたからなのか偶然なのかはわからないけれど、久しぶりの連絡をくれたひとがいた。そして実現したら楽しそうなことがひとつ増えた。そうかあと思った。それは、なんだかすごく、からだの奥底から湧き出たような、そうかあ、だった。
君去りし平成のおわり。
ゆるやかに、だけど確実に変わっていくものがあることにずっと気がつきながら、見ないふりをしていた。そういうふりをしているうちにそれが現実なのだと思い込んで、いつのまにかそれは永続的とすら思える現実になった。だから突如として途絶えることに混乱してひどく動揺する。ぜったいにちがう、そんなものはない、と知っていたはずなのに、いつもその錯覚と冷や水をかぶるような目覚めとをくりかえしてばかりいる。
わたしのジャニーズの原点は正確に言えば光一くんからはじまっているけれど、今井翼くんであり、怪談トリオです。あの黄金期です。だからといって現在担当しているわけでもないので、こういうことがあったときに部外者があまり書くべきではないのだろうと思いつつ、あまりにさみしくてブログを開きました。
小学生のころ、決まりごとのようにおおよそみんながジャニーズを好きな時期があって、わたしもそうだった。あのときは途中で離れてしまったものの、いい大人になってから重々しさを携えたキモオタになって沼に足を踏み入れたジャニーズ界隈。もういなくなってしまった子もたくさんいたし、落ちた先は知らない子ばかりだったけれど、タッキーも翼くんも、すばるくんも、そして斗真や山P、風間くん…みんなみんな変わらずそこにいた。
そのころ、まわりが結婚して出産して家庭を築いていくなかで、新しい仕事をはじめて今も続けている。持病を抱えたこともあって出産がほぼ望めないので、そんなの申し訳ないし結婚もやっぱり微妙だよなあと人生の選択からそれらを外しかけているわたしは、このさきなんとかひとりで生きていけるようにしっかりがんばらないと、と思っていた。変わらずにそこにいた彼らは、ずっと最前線を走っていて、同世代のわたしにとって希望の光、というか、「ああみんなまだトップスピードで走ってる、わたしもまだまだ終わりじゃない、ぜんぜん走れる」と勝手に同志感を抱き、励まされ、勇気づけられていた。
仕事の種類も環境も大きさもまったく違うけれど、仕事に楽しさやつらさを感じる行為じたいはきっとおなじくある。程度のちがいは天地ほどあるとして。悩んで試行錯誤してどうしていいかわからなくなって行って戻って突破して、だけどまた新しい局面で振り出してくりかえし…そうやって少しずつ前に進む。それぞれの戦いがある。見えているものや知っていることは一部のごくわずかでしかないので、そのごくわずかの部分から穴をのぞくようにして、そうところもたぶんあるよなって想像している。画面に映らないところでの、彼らにしか知りえないプライベートな人生まで消費される過酷さはわたしにはわからないし、アイドルである彼らを求めれば求めるほど、人生の一般的なイベント(この時代においてそんな指標があるのかは疑問だけれど)を放り出させてしまうことの重大さや、大勢をしあわせにする仕事の偉大さを鑑みると、おなじと言い切るにはおそれ多いけれど、それでも伝わってくるときがある。みんないつか終わる人生の旅を、幾山河越え続けているひとりなのだということがくっきりと浮かんでくるときがたしかにある。
KAT-TUNの「薫」のMVを観たときに、自分の叶わなかった夢や、幼いころに描いていたなりたかった職業のことを想った。むかし想像していたじぶんと、今のじぶんはまったくちがうところに立っていて、頭の片隅にかけらすらなかった職に就いている。それって、アイドルのみんなも実はそうで、彼らはキラキラした世界で憧れを集めつづける仕事をしているけれど、ちいさいころの夢が叶っていないってこともあるんだよな、と感じてはっとした。芸能人はなりたくてなれるものでもないし、だからこそ夢見るひとってたくさんいる。そんな世界で活躍して輝いている彼らのことをなんとなく「全能者」や「成功者」として見てしまうところがある。だけど、その「誰かが夢見ても叶わなかった世界で成功している彼らも夢見たことが叶っていない」かもしれないと考えたとき、ああ、おなじ人間なんだと思った。夢見た場所とちがっても、セーブポイントなんてあるわけないから戻ることもやりなおすこともできずに、今立っている場所で必死に生きることそのものは一緒なのだとまた強さをもらったし、みんなアイドルでいてくれてありがとうって思った。
だからこそ、ずっとそこにあるにちがいないと錯覚すら覚えるほど走り続けていた同世代の彼らが、ずっとおなじ場所にはいられなくて、なにひとつ例外なくものごとは変わっていくという事実と、かならず訪れる人生の転機を体現しはじめている今、襟を正されているような気持ちにもなるし、わたし自身もやりたいとかこうありたいとかぼんやり考えていたけれど、とくに手をつけないままここまで来てしまったことがらについて、とりかかるなり落とし前つけるなりするべきなんじゃないかとも思った。残り時間は意外にすくない。すばるくんも言っていたね、会見のとき。
みずから決めること、みずから動くこと、外側からやってきた変化を受け止めて、それでも続けること、内側にあるものと闘うために歩速をゆるめること。選択肢はいろいろあって正誤はない。ときに信仰心が通うほどのアイドルでありながら、それぞれのやりかたで、思考で、苦悩しつつも選んでいくそのとほうもない人間らしさを垣間見るとき、わたしはまた背中をはげしく押され、駆け出したい気持ちが加速する(そういう気分のとき脳内で流れるBGMはジャニーズではなくフジファブリック「夜明けのBEAT」だ。どうでもいい)。
それでもさみしい。やっぱり。出会いがしらのストレート的衝撃っていうより、ボディーブローみたいにじんわりくる。じくじく効いてくる。ああ、でもみんながみんな選んだ先がしあわせであってほしい。いや、お前誰だよって思う。だけどなんだか、そういうふうに思わずにはいられない。
部屋に貼っていた、イエローをバックに並んでいる怪談トリオのポスターの顔、今でも覚えています。家族に「誰かボーダーの服着てなかった?」って言われて、ああ、そうだったなって。たくさんあったけれど、あれだけはなぜかずっと鮮明に。
#だけどI need you.
もう1回観る機会があるので、そうしたらまた印象が変わるかもしれないし、すべて終わってからにしようと思っていたけれど、東京ドーム公演初見で感じたことを忘れないうちにまとめておきたい。
「Kis-My-Ft2 LIVE TOUR 2018 Yummy!! you&me」のはなしである。
ネタバレ絶対回避派のためこの1ヶ月半、キスマイ関連の検索はもちろん、情報が目に入りそうなところには近づかなかったのでなにが行われているのかも、その評判もまったく知らなかった。にもかかわらず開演1時間前に寄ったカフェで、「24ゲート」とツイッターで検索してある曲のネタバレに被弾したバカはわたしです。じぶんはネタバレ回避派のくせに、まだ絶賛公演中のライブのネタバレを落としていく、わたしはそういう勝手なやつなので、見たくないひとは目次よりも下は非スクロール推奨。あと、今回のツアーを手放しで褒めたいひとを怒らせるかもしれないのでそのあたりも自己責任でお願いします。
Kis-My-Ft2 LIVE TOUR 2018 Yummy!! you&meについて
2017年を踏まえて、開演までのこと
以前ここでも書いたけれど、2017年のツアーに関してわたしは落胆を隠せなかった。
このときに勢いで書いた気持ちのすべてを今は実感を伴って思い出すことがむずかしいし、DVDを観てやっぱり修正入ったんだなと知ったり、いろいろと考えなおしたりもしたけれど、結局あの時点で感じて書いたことがいちばん正直な感想なのだと思う。それを踏まえて、わたしは1年ぶりにまたがっかりするかもしれないのが怖かった。だけど「キスマイは2年ごとにいいライブするから!」「それな!」という謎のポジティブ(かもわからない)精神を玉森担と言い聞かせあったのはきっと期待以外なにものでもなかった。「WORLD」から「I SCREAM」への変化で感じた、いいアルバムを作りそれを投影すればおのずといいライブになるという方程式は「MUSIC COLOSSEUM」で崩れ去り、もうなにがどうなるかわからないから「Yummy!!」がどう転ぶかなんて未知数だと思っていた。それは個人的な好みの話ではけしてない。そういうのを脇に置いて考えると、キスマイはいつもいいアルバムを作っている(「WORLD」に関してはわたしの理解の範疇を超えているので何も言えない)。
そもそも「見えたらなんでもいい」ってなれないじぶんが悪いんだろうし、むしろ会える機会があること、この変化著しい時代に於いて"変わらずに存在がそこにある"ことの余りある尊さを享受しろ!と何度も感じたし、それを思い起こすできごとが今日までに幾度もあった。でも、キスマイについて重々しく考えだすととたんにダークサイドに堕ちて面倒な思考と感情の狭間を漂うことになるので、もっと楽なところから眺めたろ、そうしたら気楽だろうし、どうしても許せなかったある案件もどうでもよくなるかもしれないし、良し悪し関係なく楽しいと思えるかもしれないと考えた結果、わたしは彼らをはっきり担当だと定義することをやめた。フラットに眺めることで彼らの良さをもう一度見出だしたかったし「やっぱりキスマイじゃなきゃだめだわ!!」ってなりたかったし、もっと言えば「見えたらなんでもいい!!」ってなりたくてしょうがなかった。こんなファン藤ヶ谷くんもいらんやろ、って考えるたびに「つら…」ってなるから「なんでも受け止めるよ♥」って思いたかった。
だけど個人的な意見として「見えたらそれでいい」は罠だとも思う。それは彼らへの成長期待度を放棄することでもあり、最終的に「本人がいればなんでもいい」という地点に落下することになる可能性を孕んでいる。極論、出てきて「かえるの合唱 」輪唱してても可愛いからOKみたいな。極論ね!!
それは違うだろう、と。きっとこれはじぶんの彼らを追いかけるうえでのスタンスでしかないから、このまま行けばいつかわたしは手放すしかないだろうと思えてならないけれど、でもずっとそれは「今」じゃなかった。
ああ、また重々しく書いちゃってすごく自己嫌悪。楽しければなんでもいいー☆でいいのに。だけど、感覚的にはたぶんそれに近い状態で当日を迎えたことは確かだ。
開演してから感じたいろいろ
セットリストと内容のこと
・エゴサの鬼
キスマイには一部エゴサーチャーがいるだろうと思っていたし、実際「MUSIC COLOSSEUM」の変更点はそこから来てる疑惑もあったけれど、エゴサの鬼すぎると感じたポイントがいくつかあった。カフェでネタバレみた曲が「Tell me why」で、へえ、ひさびさにやるのね、くらいにしか思っていなかったけれど、そんなん、まさか1曲目とは思わんやん?あのOPからスタンドマイクで「oh,Baby…」って来たから「why?」ってなった。この曲は福袋でもランクインしていたから、人気曲だし(とくにデビュー前後のファンの方に多いのかなとも思う)そのへん考慮したのかなって。斬新すぎてわけがわからないってなったけれど、落ち着いて今考えると、物語のはじまりとしての1曲目が、キスマイの微妙なこころの揺れだとしたら…担降りが多いらしいという現状を知っているとしたら…いや考えすぎか。
2曲目は「Crystal sky」ってそれ1万年と2千年前から聴きたかったやつ~~~(古い)
終盤の「Let it BURN!」もそうだけれど、本家がちっとも披露しないじゃないですか!案件だったカップリング曲やきっと多くが聴きたかったであろう「今はまだ遠く 果てしない夢も」も。その点に於いて最たるものは「I Scream Night」かもしれない。この曲は人気もありすぎるしわたし自身も愛しすぎているし、聴きたいけれど二度とないくらいの覚悟を決めなければいけないほど、キスマイの2016年夏を象徴する1曲だった。もしも可能性があるとしたら西武ドームのWアンコールくらいでは、と思っていたのに序盤でさくっと使ってくるとは…「ちがう……」感すごかったけれど、でもすばらしい楽曲にたいして逆にそんな呪縛をかけてしまうことほど悲しいことはないので、さくっとその呪縛もしくは魔法を解いてくれてよかったのかもしれない。もうめっちゃおたくのツイッターみてない?ってなったし、ファンの声を掬おうという気持ちがこういう選曲になったのかなと。実際はエゴサしてないかもしれないし、ファンレターかもしれないし、そういうのまったく関係なく選んだかもしれないけれど。ただ、このやり方は劇薬だから劇的な効果はあっても効き目は短いとも思う。
・エモエモのエモポイント
「Break the chain」から「FREEZE」と「蜃気楼」から「Flamingo」の流れは最高の極みとしか言えない。「Break the chain」では上下に動く舞台装置と、スクリーンに映る鎖と巻き上げ装置が連動している見せ方や「FREEZE」のダンスに合わせたライティングや効果がいいなあと思いながら観ていた。けれどなによりこの2曲にわたしがすきなキスマイのすべてが詰まっていた。つづく「蜃気楼」では何度気絶しそうになったかわからない。専門外なので間違っていたら申し訳ないけれど、あれはコンテンポラリーの要素もあるのかな。おとなの表現力で魅せられるようになったねえ。全体が眺められる席ではなかったので、正直藤ヶ谷くんしか観てない。指先まで神経の行き届いた藤ヶ谷くんのダンスにはもう数えきれないほど見惚れているけれど、これは、なんていうか、彼の一挙手一投足に至るまでそれよりももうひとつうえのなにか。最高密度でせまってくるそれが、わたしの胸のなかでどこか宙に浮くように存在していたものと結びついていくようなその感覚を、極限まで解体してシンプルにひとことで書くとしたら「一生すき」。来世で黒レースになれるくらいにはがんばって今生を生きようと思った(謎)
あと、玉森くんの「Clap-A-Holics」は凄まじいほどの高クオリティ件ハイセンス演出でやっぱり玉ちゃんこわい。いや玉森さんこわいです。となったのと、序盤の足掛かり、そしてラストに向かう扉としての役割とその到達点である特効使用曲という重要なポイントに配置された2017年のシングル3曲はやはり良作だったと再認識した。
・混乱ととまどいポイント
「We are キスマイ」があるのにコーリングもやるのね、っていうのは思ったのだけれど、そんなことなど吹き飛ぶほど混乱したのが藤北の「REAL ME」マイノリティの自覚はある。だけど観ていてつらい。曲の持つテーマや意図は理解しているつもりだし、この表現もふだんの藤北とそんな彼らだからこそ発揮できる強さを鑑みてもとまどいしかなかった。誤解を恐れず言えば、同人誌的よりも文学的な表現を選ぶふたりを観たかったというのがいちばん近い。それと、アルバムの特典の中で誰も対処しきれていないんだなと感じた「藤北」を対処しきれないまま超次元に飛躍させてしまった印象がぬぐえない。
藤北がドームのセンステで熱を帯びた視線を一身に集め、錯乱めいた悲鳴と産み出すほど宗教じみたシンメであることに異論はないけれど、あのふたりの繋がりはもっと深くの、おたくがおいそれと、もしかしたらメンバーさえも触れることができない地点で目に見えないかたちで存在しているとわたしは思っている。でも京セラでもう一度観てちゃんと落とし込みたい。
ブレーキポイントはなくはないにしても、意志のあるセトリだと感じた。「Yummy!!」の多面性に過去の楽曲も交えて体現したキスマイの歴史を、おそらく彼らが今一番伝えたい気持ちを内包しているのであろう「今はまだ遠く 果てしない夢も」と「HOME」に終着させたかったのだとわたしは解釈した。1年ごとに感じた「うわめっちゃ気持ち置いてかれるわ」もなく、2時間45分、パワーもあり、すっきりまとまってもいて楽しかった。というか今回、ポップさが前面に出てきそうなツアーになるかと予想していたのに、なんでペンラ白のみなんだろうって疑問だったけど最後2曲のための白だったのね。終わってからTwitterで呼び掛けられてるの見て、なるほどと思った。
なにかと絆推しをするキスマイについて
所謂飯島班だったキスマイは、そうでなくなったとき立ち位置があやふやになったのであろう状況をわたしは想像していた。その結果メンバーから「キスマイは7人」というワードが頻出するようになったのではないかと考えている。たしかに今、キスマイは7人だ。ジュニア時代から今まで7人で色々なことを乗り越えてきたのだろうし、本人たちでなければわからない、知り得ないこともたくさんある。にしても、わたしがすきになった時点でのキスマイは、少なくともこんなふうに絆売りするグループではなかった。個々の仲の良さはべつとして、各々がインデペンデンスでありながらおなじグループとして存在して結果的に強みを発揮しているけれどそれはウェットではなくドライな雰囲気を纏っており、それが魅力的だった。ジャニーズのファンになるというハードルが比較的低いところも含めて、テン年代の新しいアイドル像たりえる、とわたしは思っていた。ファンに対してもライブ終盤になってもウェットなことはほぼ言わず「また遊ぼうね」ってかんじで颯爽と去っていくし、「一心同体」みたいな重たさとは無縁だった。(そういえば、デビュー前にツアーが決まったとき藤ヶ谷くんが「みんな!一緒に全国回ろうね!」って多ステ前提みたいなこと言ったとかいうエピソードがなんか笑えてきてすきなんだけど、それもそういう重たさとは全然違う)
どれがすきかはあっても、どれが正解かはない。グループの魅力というのはそれぞれで、どういう雰囲気を持っているか、グループとしての繋がりがどういう形で、それをどういう名で表すのかはそれぞれだしなんでもいい。だけどキスマイはメンバーが大事であることはもちろん前提にあるとしても、「友達」とか「家族」、「大好きな人たち」「絆」のような言葉で表すよりもっとビジネスライクだったことは確かなのだ。もちろん最初に書いた事態や、昨今の事務所内の色々なできごとが招いた心境の変化もあるかもしれない。上記の言葉を彼らが直接口にしたわけではなくても、このライブ内容にどうしてもそういうものが浮かび上がって見えてしまうのはさすがに斜にかまえすぎかなとも思う。でもそもそも7人で普段から仲のいいっけ?メイキングでもいつもぜんぜんそんな風に思わないけど?とはいえキスマイに関してはわちゃわちゃ仲良くしてほしいなんてあんまり思ったことないけど…いや、そりゃ仲悪いよりはいいけど…「友+情を、くっつけて」でスクリーンに流れた大量の写真を見たとき、気まずさという味があるならこういう味だろうな、とでも言いたくなるような、なんともいえないもやもやが口内に広がった。
経過した時間が層になって今の彼らの中に横たわっていることはそれだけでキスマイの物語ではある。だけどなんだか不安定なものに寄りかかっているようにも見えてざわざわした。ジャニーズ事務所のアイドルって、アイドルでありながら少なからず表現者としての一面も持っていると思う。もしも表現者として今、「仲良きことは美しき哉」をわざわざ表現することを選んだとしたのならそれは、そういうものは自ずとにじみ出るものであってわざわざ看板を掲げることでもないから、どうなんだろうなってちょっと気になってはいる。
去年のツアーで精神的な距離を置き去りにしたまま物理的な距離を詰めたがる発言を繰り返していた彼らに疲弊したことを思えば、選曲の面も含めて少しでもファンの気持ちに寄り添おうとしたキスマイは変わったなと感じる。その発露が焦燥でも不安でもだとしても。
だから最後のあいさつになにも感じなかったわけではない。7者7様、わたしなりにキスマイを応援してきた6年を思うと、揺さぶられるあいさつだった。なんなら泣きそうになって「ああ、わたしきっとまたキスマイがすきというところに着地するんだな」と予感した。もうこれは理屈ではなくそうなるようにしかならないなにか。こんなに紆余曲折しているのにそこにのみ帰結する理由を切実にわかりたい。藤ヶ谷くんの存在、これは絶対に一番だけど。
その他雑感
キスマイのドームライブのアリーナはじめてはいったんだけど、いつもあんな感じなのでしょうか。銀テとるのに椅子に乗る、超席移動、超引っ張り合い…はっきり言って無法地帯すぎてびっくりした。わたしは銀テは落ちてくれば記念に一本持ち帰ろうかなくらいなので横からもぎとられてもどうでもいいんだけど視界思い切りさえぎられると…メンバー見たいんだけど…正直、4月のKAT-TUNのライブで「たくさん落ちてきたのでどうぞ~」と横から銀テまわってきたのとはすごい差だなと。そういうブロックもあったかもしれないけど。
まとめ
色々書いてしまったけれど、いいところはたくさんたくさんあったし「ただ楽しむ」という面から語ればなにも言うことはない。このさきキスマイに使いたいエネルギーもちゃんとあるし、理由を箇条書きにできなくてもやっぱりこのひとたちはじぶんにとってとくべつな存在なんだということも実感した。楽しくて日常の嫌なことも一瞬は忘れられたしまた日常をがんばることのできる糧になった。
前に嵐の国立のライブDVDを観たとき、キスマイをこの位置に押し上げたいなと思ったし、今でも思っている。それを念頭に置くと去年のツアーの記事にも書いた「毎年成長を積み上げたうえでスキルをプラスする」というグループにはまだ至っていないのだなということを感じてしまう。7年目を迎え、若さと勢いだけではもう通用しない時期に入ったキスマイに足りないものがなんなのか、ひとつ推察はしている。もちろんそのひとつだけでどうにかなるものではないにしても、きっとさまざまな活路を見出だす手段のひとつになりえるのではないかと思う。ここでこんなおたくの勝手な戯れ言を書いたところで意味もないけれど、これが今ツアーにおけるわたしの所感である。
さいごに、藤ヶ谷くんお誕生日おめでとうございます。今年も「見守るよ♥」ってなれないめんどくさいおたくでごめん。こんなふうに言い散らかしたりしながらも、わたしのこたえはだいたいひとつしかない。今はまだ。
いのちのつかいかたー椎名林檎 ひょっとしてレコ発2018ー
椎名林檎さんのライブに行くといつも、贅沢な時間を過ごしたな、と思う。たった2時間ばかりのなかに五感を震わすたくさんのものが詰まっている。それだけで、大袈裟でもなんでもなく生きているという価値をわたしは感じることができる。
「椎名林檎 ひょっとしてレコ発2018 改め 椎名林檎と彼奴等の居る真空地帯」
を名古屋センチュリーホールで観た。今ツアーのロゴがすごくポップでチープでキュートだったので公式も言っていたとおり、グッズのテイストもそうなるかなともれなく想像していたのに、虚空だの亜空間だの涅槃だの…何故だ?って疑問がとけた。ツアータイトル、改まっていたのですね。ネタバレ回避派なので知らなかった。そんな特殊開発グッズ、手旗やタオルなどの定番に加え、今回ついに御朱印帖を購入!前回はあまり神社仏閣めぐりしないからな…と思って見送ったけれど、もし行きたくなったとき「どうせなら林檎さんのグッズを使いたかった!!」って自分に駄々こねだすのが目に見えてるからw実物みたら守り蜘蛛のボタンがとても可愛くて買ったので、ヘアアクセサリに改造しようか考えたりもしている。お財布が許すなら名古屋帯欲しかった…
さて、ここからセットリストに入った曲も書くので、終盤戦とはいえまだツアーは続いておりますゆえ、おなじく回避派の方はお気をつけください。
***
思えば、林檎さんの音楽とともにずっと旅をしてきた。中学生という多感な時期に出会って以来20年弱。人生の半分以上がそれらとともにあって、受けた影響はおそらくはかりしれない。おそらく、と書いてしまうのは、ものすごく影響を受けたのはたしかなのだけれど、なにがとかどこがとかそういうことははっきりとはわからないからだ。林檎さんがリリースを重ねるごとにわたしも歳をとって、むかしの曲の受け止め方が変わったりすることもあるし、すきな曲も変わる。自分の考え方のある部分が、この人の言葉から来ていたのだな、とあとから気がつくこともある。そういうことが膨大すぎてピンポイントではとても表せない。親が、血筋が、土地が、わたし自身のルーツであるように、林檎さんの音楽はきっと心のルーツで、どれだけ好きなものが増えても減っても、帰る場所、拠る場所であり、この20年で構築されてきた価値観や人格形成に根をはっているのだろうと思う。
林檎さんとともにあった人生は、さまざまな出来事、さまざまな感情を巡る旅であると同時に、わたしが今日までのわたしになる旅でもあった。
そんなことを考えてしまうのは、やはりライブがスペースシャトルが打ちあがる映像にあわせてカウントダウン、そして「人生は思い通り」ではじまり、飛行機が雲のうえを飛ぶ映像や、宇宙空間を漂うような映像にあわせて楽曲が繰り広げられ、まさに「旅」を想起させるつくりになっていたからだ。「逆輸入~航空局~」と銘打たれたアルバムを引っ提げてのツアーだったことを考えればそのとおりなのだけれど。セットリストを眺めてみれば、ある女性が女性を生きていく旅なのだと思った。なんというか、この並びがとても生々しい。セットリストは以下。
【セットリスト】
- 人生は思い通り
- おいしい季節
- 色恋沙汰
- ギブス
- 意識
- JL005便で
- 弁解ドビュッシー
- 少女ロボット
- 浴室
- 薄ら氷心中
- 暗夜の心中立て
- 枯葉
- 眩暈
- おとなの掟
- 重金属製の女
- 静かなる逆襲
- 華麗なる逆襲
- 孤独のあかつき
- 自由へ道連れ
- 人生は夢だらけ
encore
- 丸の内サディスティック
- NIPPON
- 野生の同盟
すさまじい…前回のツアー「椎名林檎と彼奴等がゆく百鬼夜行 2015」(超絶神セトリ)においても、初期のナンバーは取り入れられていた。けれど今回の初期ナンバーは「ギブス」「弁解ドビュッシー」「浴室」と、うまく言えないのだけれど、女性性を意識しすぎるあまりにむちゃくちゃ出ている女性性、みたいな、そういう雰囲気をまとっているような曲が入ったという印象だった。ちょうどセトリの真ん中に据えられた「薄ら氷心中」と「暗夜の心中立て」を境として、OPを除けば前半は恋を生きる不安定な少女のようであり、後半は「逆襲」の名のもとに息を吹き返し、愛と人生を生きる等身大の女性のように感じた。「唄い手冥利」収録のカバー「枯葉」と「眩暈」をのぞけば初期のナンバーはすべて前半に固められていて、後半には東京事変を経たあとのソロ名義の曲が並ぶ。
いやあもう「眩暈」は死ぬほどびっくりした。林檎さんのCDはじめて買ったの「ここでキスして」だったから…生涯生で聴くことはないだろうと思っていたよ!今だったら「座禅エクスタシー」遠征するけどさあ…20年やってきてこんなセトリ組む?わたしは度胆抜かれた…一生ついてく…
林檎さんのむかしの楽曲はもちろん変わらずすきだけれど、今の道しるべになってくれるのはやはり最近の楽曲が多く「おとなの掟」からは気持ちのメーターが振り切れて針がどこかに飛んで行ってしまうような危機感すら覚えた。会場全体の盛り上がりもピークだったと思うけれど「孤独のあかつき」→「自由へ道連れ」の流れはもうわけがかわらないくらいまぶしくて、いとしくて、涙が出てくるのに笑っていて、この会場で揃って手旗を振っているみなさん全員の人生がしあわせだといいなとか(いや、そんな誰かも知らんやつにしあわせ願われても気持ち悪いとは思うんだけど)もうきっと人生が交わることはないだろう林檎さんのことをすきだと言っていたひとのことを思い出して、あのひともどこかの会場でこの景色を観たかな、そうだといいな、とか、脈略なく点在する想いが線になって激しい波のようにつぎつぎと押し寄せてひざから崩れ落ちそうになった。そしてやってくる「人生は夢だらけ」ねえ!もうどうしたらいいの!万感!それ以外言葉がない!そのむかし、もっと排他的で人生に展望もなにもないと思いながら、Zipperとロキノンを片手にMDプレイヤーのイヤホンを耳に突っ込んで赤いコンバースで地面を蹴散らしていたわたしも、今は叶うかもわからない大きな夢ややってみたいちいさなことまで、つぎつぎに出てきて時間足りないどうしようでもぜんぶとっかかりたいって、だけどそれだけで毎日を埋めることはできなくて嫌なことや不安、もう捨ててしまいたいものに押し流されたり忙殺される日もあるよ!それでもあれもこれも心に引っ掛かったものには正直に従順でいたいしぜんぶ味わって生きて死にたいって思いながらハイヒールでしっかり立っているよ!これが人生!わたしの人生!って叫びたかった。いや、叫んでたかもな、胸のうちで。
林檎さんから影響を受けたもの、ありすぎてわからないって書いたけれど、ひとつだけこれだけはそうだと確信していることがある。それはいのちの使い方のようなもの。五感をきちんと機能させるとか、望むままからだごと反応させるとか、持っているものぜんぶ使って生きようとか今を使い切って生きようとか。わたしが持っているものなんてたかがしれているし、たいしたものも持っていないし、立っている場所も平々凡々な日常だけど、わたしにしか持ってないものだってきっとあるはずだし、どんな場所にだって最前線はあるはずだ。
現在それがただしくできているかと言えば、まだぜんぜん至っていない。だけど、その意識ひとつだけは持っていたい。たとえば大きな選択がやってきたとき「これが転機だ、今がそのとき!」なんてはっきりその瞬間にはわからないけれど、今を瞬間を誠実に生き切っていればこそ、そのタイミングを見誤らずにつぎの世界に飛び込めるのではないかと最近よく考える。その先で成功するか失敗するかはわからない。それはそのときのはなしで、そうなったらまた試行錯誤すればいい、と思うのは甘いのかもしれないけれど、でもそのタイミングに意味があったことはわかるんじゃないかなあと思っている。なんにせよ、出しきって使いきって感じきって生きて死にたい。
わたしたちの旅は「何時も…行ったきり」だから。そしてあっというまの。
Kis-My-Ft2 7thアルバム『Yummy!!』を聴く。
この新しいアルバムのアーティスト写真やジャケットをみて、なんだかキスマイおとなっぽくなったな!と思った。おとな、という表現よりも精悍になったと言うべきかもしれないし、良い意味で落ち着いたとも言えるかもしれない。彼らのこのリラックスした表情には余裕すら感じられる。いい写真ですね。そんな7枚目のアルバム『Yummy!!』を聴いたので感想。
個人的にはデザインの効いたジャケットが大好きで、本人がいるかいないかに熱くこだわることはないので、ぱっと見で初回Aが可愛いなと思ったのだけれど、ロゴシールが外側にしかない…OPP外したらただの白いパイ…ということでジャケットは初回Bか通常が勝利です。と思いきや裏側にちゃんとロゴいりのパイあった。そりゃそうだよね!Aの歌詞カードにインスタ的な食べ物ドレス着たキスマイいたけど、クロワッサンドレスの藤ヶ谷くんがただのギャルであった。
というかavexさんは、某6つ子アニメを自社で扱っているのをいいことにいろいろとオマージュしすぎだ。映像特典「ミュージックドラマバラエティwithアニメ」ってなんだ「withアニメ」って。あれだな~~~ふたつ連続で覇権とったから味をしめてるな~~~とか邪推するめんどいおたく。いや、いいよいいよキスマツ荘。YouTuberみのあるキスマイ。
モニタリングで藤北の話題で地雷踏む宮田さんとか、玉森くんに「その眼鏡似合ってないよ」って言う二階堂くんとか、歌詞カードに掲載された食べ物ドレスの写真を撮りたいガヤさんに「こういう写真撮るためにカメラ買ったの?」って言った千賀さんに笑ったよ!本音屋台でやっぱり藤北は藤北や!と思ったよ!1回しか観てないから感想薄くてごめんね!
ゆるスポーツ選手権はやっぱり最高だし、キスマイTVでは人間的に大丈夫か?って不安になったとこもあったけどおもしろかったよ!若気の至りだよね!でも2016年ぶっこんでくるのは勇気なのか無頓着なのか知らんけどびっくりだよ!!!!!!!!!
さ、本題本題。
『Yummy!!』
1."7th"Overture
キスマイのOvertureのなかでは異色すぎるインスト。レトロさもあるアメリカンでご機嫌なサウンドとともに、ママとちいさなこどもが繰り広げる会話は
「デザートつくるよー」
「やったー!パイ?ケーキ?ブラウニー?」
「HAHAHAおたのしみに~」
「まちきれなーい!」
というかんじかな。そのあと一悶着(デザートのお皿を落としているのかな?)あったりレンジがチンと鳴ったりの末、曲の最後にこの子が放つ「Yummy!!」というキュートな一言でアルバムは幕をあける。
2.Invitation
あいかわらずOvertureから1曲目への入りがいい。間とかそうとう計算してますよね?と思わずにはいられない。このアルバムの世界へ招待する1曲目としても、歌詞もライブのOPを飾る1曲としても秀逸なリード曲だと感じた。ラブソングのかたちをとりながら、ライブでの彼らとファンにも置き換えられるフレーズがいくつも散りばめられている。「10秒で見つけるよ」というフレーズになんか軽、ちゃら、と思っちゃったんだけど、すごいキスマイ感あっていいなあ。「え~~~10秒なんてぜったいうそでしょ~~~♡」って言いたい。試聴の段階では「Baby Love」みたいなファンクかなと感じたけれど、あそこまでグルーヴ感強くなくて、都会的で洗練されているような印象。こういう曲は踊るときに独特な緩急というか、間のようなものも魅せ方のひとつになりそう。そういう曲がつづけて出てきたことは年数を重ねてきた証かな、と思っている。
3.Mr.Star Light
これローラー履くよね???タイトルみたときに、光GENJIみ感じたのわたしだけ?歌のはじまりも「パラダイス」だったからよけいに。まあパラダイス=銀河っていうわたしの発想力もどうかと思うけどさ…ちゃんと歌詞読んだらこれまでの楽曲のタイトルがいくつも織り込まれていた。キスマイ系キラキラアイドルソング。うん、キスマイ、ってかんじ。随所に現れる音の飾り方がavexってかんじ。
4.PICK IT UP
キスマイのシングルのなかでもかなり質の高い楽曲だと思っている。3分15秒からラストにかけてはとくに至高。曲中で繰り返される、あの気持ち悪そうで気持ちよく揺れる音にシャツをひっぱる仕草をシンクロさせていくダンスが決まるのはキスマイしかいないでしょって本気で思っている。
5.Break The Chains
え!なんかあたらしいな…!こういうアプローチの曲って今まであったかな…というのは奥行きを感じるハードなロックアレンジによるところが大きい。はじめはそこばかりに気を取られていたけれど、こういう詞をキスマイが歌うの泣ける。こう言ったら怒られそうだが、キスマイって常に「この時代のチャンピオン目指せNo.1」精神でいるというか、未だにチャンピオンに至っていなくて常にファイティングポーズを取って挑み続けている人たちだなと思う。縛られて、もがいて、戦って、壊してここではない、どこかへ。このハングリー精神!たとえ傷ついても、その傷さえ輝きそう。
6.Toxxxic(藤ヶ谷太輔)
タイトル発表されたとき、藤ヶ谷くんの厨二病まだ治ってなかった…(愛を込めてそう言ってる)って思ったんだけど作詞はご本人ではなかった。これぞ藤ヶ谷太輔でしょっていう伸びのあるボーカルを聴かせるアッパーチューン。この強気な姿勢で否応なくライブへの期待感を煽ってくる藤ヶ谷太輔尊い。
7.蜃気楼
これ試聴したときから期待していたんだけど、なかなかよかった。前々回くらいかアルバムに1曲は入っている洋楽っぽさを追求した楽曲でしょうか。OPから続く流れを塞き止めることなくチルアウト的な役割を果たしている。このノスタルジックな曲調をものにしているのも年数の為せるわざ。おとなになったねえ!
8.カ・ク・シ・ゴ・ト(北山宏光)
試聴したとき、作曲HusiQ.Kさんだろうなあと思った。そうだった。サビでとくに感じる北山節。あいかわらず刺さるせつないメロディメイクはさすが。あと、北山担ころしに来てるなって思いました。
9.セルフィー
セルフィーってまた、現代的なワードきた。いつも思うけど、キスマイってほんと若いよね。あとこういう曲調すきだよね。編曲はともかく、懐かしいメロディラインに乗せてさわやかな恋を切り取るかんじの。
10.青春 Don`t Stop!!
イントロがただただ懐かしい。Jポップ的な、というか往年のジャニーズを感じさせるサウンドも1曲入れておこうってかんじなのかな。
11.Super Tasty!
この曲についてはまず、Mステで披露された玉森くんの「say!いぇーい!」のかわいさに5億点進呈したいということと、トロッコ?お手振り?うそでしょ???ってせずにライブでちゃんと踊ってくださいとお願いしたおしたい。「SOS」をライブでほぼやっていないせつなさ…おたくはああいうのすきだよ!
アルバムコンセプトを端的に表す1曲であることが歌詞とアゲアゲなキスマイポップス感に凝縮されている。
12.Clap-a-Holics(玉森裕太)
圧倒的に優勝。グループではやらない方向性の中でじぶんの好きなものを思い切りソロに振っているような印象の玉森くん。いつのまにこんなに表情豊かに歌えるようになったのか。玉森裕太ずるい!今回も最高でした。圧倒的信頼感!
13.FREEZE
はじまって3秒でかっこいいと確信できる。アーティストが提供してくれる楽曲は、その方の感性で今のキスマイから感じるであろうものがかたちになるのかな、と思うので今回のMIYAVIさんはとくに楽しみにしていた。メロディもアレンジもMIYAVIさん節を感じる表現が難しい楽曲だけれどこういう曲を歌えることは自信になるのでは。ライブで炎焚きそう。FREEZEだけど。
14.赤い果実
赤い果実やっぱり最高。2017年がシングル当たり年だったことをあらためて実感。このアルバムの最高潮は13曲目からここかな。
まあ、このふたりならだいたいの曲も歌いこなせるよね。ぶっちゃけなんか古くさいな、と思ったんだけど、それわたしが歳とっているだけで若い子が聴いたらもう一周してて実は新しいのかな。最近の局地的な音楽ムーヴメントを目にしてそう思うことも多いし、そのあたりがどうにもわかりません。歌詞は刺激的だけど想定の範囲内。
16.友+情を、くっつけて
メッセージ先行なんだろうなあ。歌詞が鈴木おさむさん作というところにもそれを感じる。特典映像ありきでもある。
17.HAPPY☆DAY
ドリフの決めゼリフで始まったかと思ったらゴスペルで終わってた。ライブで手拍子とともに一緒に歌いましょう!ハピネス!な流れになりそう。
【bonus track】
18.We are キスマイ!
ピーチって!キスマイ聴いてみよっかな~って通常盤を手に取ってくれた一般の方には謎だろ!歌割りの妙もキャラ説明も完全におたく向け。とはいえコミケで発見については誰が聴いてもわかるだろうな。宮田さんが世の中にむけて確立したものは大変大きい。ボーナストラックですし、ライブでのC&Rありきの曲だからこれでいいと思いますが。
やりたいことは、とてもよくわかった。7年目になってできることが増えて、表現の幅も広がったからこそ色々な面を詰め込んだアルバムなんだなと思える。キスマイの魅力はこの変幻自在さにある。王道的な面を踏襲しつつもけして王道ではなく、かといって鋭角すぎず間口が広い。悪く言えば中途半端だと揶揄されそうだが、されないギリギリのところを攻めている印象。「yummy」という解釈が広いテーマを用いて、キスマイの多面的な魅力を概ね収録しきっているのではないかと思う。前作は7人それぞれがチョイスした「音楽」を持ち寄って個性をぶつけ合う「闘技場」をモチーフにし、強さが突出したアルバムだったのでかなり好き嫌いがわかれるアルバムでは、と思うところもあった。今回はキスマイのアイドル性を置き去りにすることなく、ある意味原点回帰とも言えなくもない部分や、新しい趣向も取り入れた新旧折衷なまさにアラカルトのような1枚。個人的にはもう一捻りほしい、と思う部分も否めないのが正直な感想である。
前回同様、3人のソロ曲を通常盤のみ本編に組み込むのはどうなのだろう?ボーナストラックではダメなのでしょうか?通して聴いたときに初回と通常で印象が変わってしまう作品を二面性とするかブレとするかは難しいところではある。が、新しい作品として1枚世に出すわけなので7人で全力勝負するべきだとわたしは思う。また、藤北の曲だけを本編に収録しつづけているのはもっと意味がわからない。過去にあった、二人はソロで他はユニットで、もしくは舞祭組の曲を収録したから他はソロやユニットで、というのはまだ理解できたけれど、今はちがう。4人のソロは?「KIS-MY-WORLD」で組んだユニット以外の他ユニットの可能性は?もっともっとやれることはたくさんある。そういう選択を持つことはキスマイにとってマイナスではないとわたしは信じている。セールス的な事情?知らんがな。度外視しろとは言わないけれど、キスマイならできるだろ!と思ってしまうのは平たく言えば愛以外なにものでもありません。
あ、限定シングル「You&me」に収録されていた「HOME」が期待以上に良かった。
いとも簡単に 過ぎた時を君はいつも一瞬で埋める
ほんとうにね。
2018.4.20についての日記。
4月20日金曜日「KAT-TUN LIVE 2018 UNION」に参戦した。
もうほんっっとのほんっっとに楽しみで、一週間前の金曜日には楽しみすぎて謎の奇声を家であげて爆笑していたら(やばいやつ)、週のはじまりにやっぱりジャニオタとしてはなにかを感じてなにかを考えざるを得ないことが起こったりもして、感情だけは乱高下して忙しないのに一日一日が過ぎるのがものすごく遅く感じた。だけどもう終わっちゃったんだなと、時の流れの無常さを感じつつ、それでもあの日の記憶はたしかにわたしの中に存在して、想像じゃなくもういつでも取り出すことができるんだなあと思うと、月並みだけどうれしいです。
KAT-TUNのみんなほんとに楽しそうでうれしそうだったから!!!わたしもすごくうれしくなって、3時間ずっと笑顔になってた!!!もう超しあわせな空間だった!!!!
と、長年追いかけているわけでもないわたしなんかが書いていいものかなあとも思うけれど、じっさいにほんとうにそういう気持ちでした。
ライブ前は、今回の公演名が「UNION」だとわかったときに、「組合」だとなんかあれだから「連合」「結合」のような意味合いなのかなと、壮大で重厚なテーマで来るのかなと想像したし、ロゴが「三本の矢」だと判明したときには「えっ…待って…つよい…」とエモみで昇天しかけた。これ以上にふさわしいものがあるのか、これを持ってくるセンスは天才じゃないか、三本の矢て…!紐の部分のラインがハイフン…!三本なら折れない矢を束ねているのがハイフンってもうね…KAT-TUNって半端ないな!と感嘆とも尊敬とも賛美とも、一言ではとても言いきれない感情に襲われたり、グッズアプリってやっぱ入れておいたほうがいいかな…ってインストールしたら3人+レトロな外車?アメ車?+逆光の写真が出てきて爆イケすぎヒィ…ってなったり、「Ask yourself」のジャケットのKAT-TUN×黒い羽やポラロイドの写真にいちいちまたヒィってしたり、歌詞カード最後のページ、3人の手の「3・2・1」っていうカウントダウンに高まりすぎたり、そんなことを経て近づいてくるごとにいろいろな想像が駆け巡っていたけれど、どんな初日になるのかまったく予想もつかなかったし、そもそもわたしなんぞに予想できることなんて絶対しないだろうし、もうまったく予期せぬ、それもすばらしい事態になるのだろうなということだけは信じる…という言葉をわたしが使うことが適切なのかどうかは自信がないけれど、信じていたのだろうと思う。
いざ当日を迎えてみると、想像していたほど重く悲壮な決意が沈殿しているわけでもなく、エモーショナルに走りすぎることもなく、けれど3人並んだときの強さのようなもの…たとえば3人が並んで花道を歩いてくるときに見えたりする圧倒的なまでの強さ、としか表現できないのが悔しいのだけれど、そういうものはあいかわらず「KAT-TUN」でありながら、復活という一言だけではおさまらない新しさもあった印象だった。なによりあの日の東京ドームは出航の歓喜と愛に満ちた空間で、ああ、こういうかたちで結ばれてまた進んでいくことはきっとしあわせなことなのだろうなと感じた。なんかくさいねごめん。
アルバムコンセプトが中央に鎮座するライブではないので、どんなセットリストになるのか、どれも入る可能性があるから楽しみだねと話していたけれどそれでも、KAT-TUNが過去にリリースしたCDやDVDを聴いたり観たりしては、かっこいいから聴いてみたいけどわたしが生で聴くことはできないのだろうな…と勝手に位置づけていた楽曲たちがつぎつぎに繰り出されたことにもおどろいて「うそでしょ!?」となんども口元を覆ったし「こんなんずるいじゃん…もっとすきになっちゃうじゃん…」って慄いた。とくに「SIX SENSES」のイントロが流れた瞬間のあのわけのわからないほどさまざまな感情の嵐はもはや言葉で説明できない…
もしかしたら長年担当してきた方はいつかは歌う日が来ると信じていたかもしれないけれど、「10ks!」以外その場にいたわけでもなく、すでにパッケージされた公演を遡って観ていただけのわたしは、ほんとうにただ単純に、勝手に、誤解を恐れずに言えば封印してしまったのかな、と考えていた。人数の変遷とともにKAT-TUNの表現のかたちは変化しているように感じていたし、それぞれの時代の真骨頂とも言えるような楽曲はたとえやらなかったとしてもしかたがないと納得していた。だからこそもっと早くすきになりたかったなと思っていたし、逆にまた新しい表現や音楽性が拡がる可能性があることがたのしみだった。そういうわたしの安易な想像を易々と超えるように、かつての時代をどこか内包したままブラッシュアップし、3人のかたちを新たに体現していく彼らを目の当たりにして、KAT-TUNという存在そのものが可能性と創造性のかたまりなのだと感じた。
テレビで一曲歌っているのを見ていただけではわからない、KAT-TUNはほんとうはとてもかわいくて、もう~~~なにこれ~~~かわいい~~となってしまうギャップもすきだけれど(とくに亀梨くんのとんちき具合にはもうわけがわからないくらいめためたになるし、じつはChainコンDVDのポスター抽選のくだりがとてもすきだ)、パフォーマンスを観ると、畏怖の念を抱いてしまう正体のひとつがこの創造性なのかもしれないという答えに辿りついた。これまで今ひとつ正体がつかめないまま「とにかくすごい、やばい」と繰り返すしかできなかったし、今もなお「KAT-TUNはとにかくすごい、やばい、ほんとうに」と言ってしまうのだけれど。生きていくうえで、重要なもののひとつ、いえ、個人的にはもっとも大切なものだと考えているクリエイティビティ。もちろんそういう力はジャニーズ全体(だけじゃなくどこにでも)にあるのだろうけれど、きっとわたしはKAT-TUNから生まれるそれに憧れて、焦がれているのだと確信した。すでに語り尽くされたはなしだとは思うが、KAT-TUNのメンバーの個性や才能はそれぞれで、アイデアの発露や源泉もまったくちがうように見えていたし、今も見える。その融合が頂点で爆発して産み落とされる瞬間を逃すことなくきちんと掴まえるということにアプローチしていくセンス、才能、思考、感覚、人間力…うーんどのワードを持ってきても釈然としないけれど、そういうものに魅了されていたのだな…と2年後の今、ようやくはっきりと言葉にできて実感した。
たぶんこれは、ずっと果てなく続いていくのだろうと思う。ずっとずっと先を行く彼らのことを尊敬しつづけるのだろうなと思う。
と、まあ堅苦しいようなことを言っているけれど、ライブ中は亀梨くんの「俺たちの女」発言にはあわわわわ(;´;゚;ё;゚;`;)ってなったり、メガネな中丸くんにむり〜〜〜けしからん〜〜〜〜すき〜〜〜となったり、ニコッとしながらトロッコでお手ふりしている上田くん発光してない?!?!ねぇ上田くん輝いてる!!!!天使???!?!と、なんというか、なんかもうほんとわたしっておたくだな…となっていたことは言うまでもないし、2曲目の「Real Face#2」で華々しく打ちまくる特効(でもちょっと控えめだったようにも?)、天衣無縫の極みなMC、「RIGHTNOW 」(これも聴けると思わなかった!)から「In Fact」の縦横無尽なレーザーショー、「Ask yourself」のためだけの黒のあの衣装などをみては100回くらいすきって胸中で言ってた。
とくに「Sweet Brithday」で本編が終わったのはほんとうのほんとうに最高すぎてすきだった。「やります」by中丸くんとのことだったし、どのへんで歌うのかなと、中盤らへんかなとかいうまたも安易な発想をばっさりと切り捨てラストに歌って、メインステージに向かっていく3人のうしろすがた、3人の紳士的でスマートなお辞儀すがた、ほんとうにすてきで忘れられない。
もう、こうして、なにがとかどこがとか細かいところを言い出せばきりがなく、それらをまとめるととにかく「いいライブだった」としか表現しようがない。なんていいコンサートなんだろう!!!!というのが、終わったときに最初に湧き出た感想だし、ねえほんとよかったね!!!!とただしぜんに笑ってた。なにひとつ予想どおりなことはなく、けれどすばらしい事態になると信じていたことだけはなにひとつ違わず真実だった。
この日のことは、人生のなかで、大切にしたい記憶のひとつになりました。
デジタルチケット読み込み時に発行されたレシートのような紙のQRコードにアクセスしたら、なんと3人の写真つきのチケット画像がもらえた。ちゃんと席と名前が入っていて、その細やかな心遣いにも感激!!
真夏日になるということで、KAT-TUNコンにおける正装だと勝手に思っているライダースを着ていけなかったことがちょっと残念だったけど…でも黒は着た。
それでも呼吸は続いていく──「そして僕は途方に暮れる」観劇
3月20日(火) Bunkamuraシアターコクーンにて「そして僕は途方に暮れる」を観劇した。ネタバレ含むので知りたくない方はご注意願います。
わたしは兼ねてからこういう役を演じる藤ヶ谷くんを観たいと切望していた。
ふだんはアイドル=きらきらを体現するかのごとくステージに立ち続けつつも、真面目で努力家であり、完全無欠の好青年さを崩すことのない彼が時折垣間見せる影のようなものを暴いて剥き出しにするような役が来ないだろうか、とずっと考えていた。おそらく藤ヶ谷くんは概ね好青年であると思う。あくまで表面しか知らないけれど、あれがすべて作られた虚像だとはまったく思えない。人知れず葛藤したり苦悩する日々は当然あるにせよ、きちんとしたひとだという印象はこの5年ほどにおいて変わっていない。けれど、どこか危うげな雰囲気があるのもまた感じていて、生まれついての陽性とも言い切れないその微妙な部分に意味を見出すような、そんな作品に巡りあう瞬間をどうにか見ることができないものかと切々と考えていた。
役の性格や方向性は今回とは違うかもしれないけれど、それを観ることができる期待感は「コルトガバメンツ」にもあった。ただ、わたしはチケットを外して結局一度も観ることができなく、それはジャニヲタ歴の中で唯一と言っていいほどの後悔であり、ある種のトラウマのようなもの、というか、あれを見逃してしまったことによってできた穴のようなものは、結果的に「ジャニーズオールスターズアイランド」までわたしを舞台から遠ざけた。そういう後悔を二度としないように行けるかぎりは見逃さないようにしようと考えるのがふつうなのかなとも思うし、そうしたほうがいいのだろう。今になって考えるとどうしてそんなに「コルトガバメンツ」以外の舞台に立つ藤ヶ谷くんを観ないことにこだわったのか、理由もあいまいだ。ただただそうだったとしか言いようがなく、ひとつひとつの仕事にていねいに向き合う藤ヶ谷くんに対して、失礼極まりないような応援の仕方だということも重々承知している。わたしのただのエゴだ。
さて、今回の「そして僕は途方に暮れる」の藤ヶ谷くんの役どころは、一言で言えばクズだった。自身のことをクズと自覚しているわたしが「うわ、こいつくっそクズやな」と思ってしまうほどのどクズだ。悪い奴ではないと思うけれど、クズの自覚がないところとクズの自覚があるところが同居しているような具合で、彼女(前田のあっちゃん。かわいい)よく何年も付き合って同棲までしてるね???って思ったのわたしだけじゃないはずだと確信している。いや待てよ、でもわたしすきだったらクズでも許しちゃうからな…って思ったけれども、それは考えるのをやめよう。
この作品における彼(アラサー)の保有スキルは「(原因は自分にあるのに、それを責められたり怒られたりするのが嫌で話を逸したりごまかしたりしながら)とりあえず物理的にその場から逃げ出す」だ。
誰しわたしも逃げたいときはある。物理的に。たまに逃げてしまうときもある。つぶれてしまうくらいなら、むしろ逃げたほうがいいときだってあるし、ほんとうに嫌なことからはきっと逃げたってかまわないのだ。むかし勤めていた店舗で、先輩がひとりで閉店作業後、受付に退職届をそっ置きしたのか叩きつけたのかは知らないけれど、とにかくそれだけ置いて、翌朝から出勤しないなどという離れ業を見せたときから、今日に於いても仕事で追いつめられた時、そうしてしまおうかと沸点に達しそうになる瞬間がある。でもわたしは今日に至るまで一度もそれを実行できていない。
逃げてしまったあとのことを考えると、なかなかそこまで突き抜けられない。放り出すことはかんたんな解決方法に見えて、あとあと自分の首を絞めることのほうが多いだろうからやめておこう、とわたしは思ってしまう。いかんせん「逃げちゃダメだ逃げちゃだダメだ逃げちゃダメだ…やります!僕が乗ります!」*1を発想してしまう人間(おたく)としてはことさら。そしてデーンデーンデーンデーンドンドン「状況は!?」という具合でなんとか生きている。とはいえ、カジュアルな逃走はたまにやってるね。どうしようもなくどうしようもない日に早退とか。あは。適当にやってるのかもしれない。いいわけが許されるならば、それは逃避ではなく、建て直しをはかるための戦略的な撤退とも言える。それと最近はまれに「考えることを脳が拒否する」モードがあって、物事の輪郭を捉えつつもただ頭にそれらが入っては流れて漂っているだけ、という状態が発生する。これも一種の逃げかなあ。でも、うーん。いただけない。ただでさえ乏しい思考力、知的生産術、感受性、情緒。それらが死んでいく気がする。
そんなことは置いておいて、むかしでは画期的に見えたその手法も、今ではよくある話として片付けられるし、そもそも退職届すら出さずに消えるというし、現在の職場でもそういえば何人かバイトがそうやって消えたなと考えると、インスタント逃走劇ってのはもしかしたらわりとスタンダードになっているのかもしれない。
藤ヶ谷くん演じる裕一は、じぶんの醜さをあけっぴろげに見せてまで浮気疑惑について問いただす恋人との対話から逃げ、家に置いてくれた友人に振る舞いを窘められたことから逃げる。依存を深めれば深めるほど、反動のようなそれに耐えられなくて、先輩を頼り、友人に注意されたことだけは直してそこで居候するも浮気の偽装工作に一枚噛まされたことをめんどうがられ、後輩に「逃げ続ける裕一さんまじかっけーっす!なかなかほかのひとにはできないっすよ!」と煽られ、また彼は逃げていく。
冒頭、スクリーンに裕一のスマホ画面が映る演出で、姉と母親からの連絡を無視しているのがわかるのだけれど、結局行くあてのなくなった裕一は姉を訪ねて詰られ、母の元に帰るも離れていたあいだに変化を遂げていた母親からも逃げる。
このあと裕一は同じく色々なことから逃げている父親(クズ)と再会し、行き止まりに当たったかのように思えた。ふたりでこの世の果てのような狭いアパートの一室で生産性のない日々を送り、社会の歯車から外れ続ける。想像するにこれはおそらく、感じているかいないかはべつとして、深い孤独だ。つぎつぎに人間関係を絶って頼る人間がいなくなっていくことでじりじりと感じていく孤独の最果てだ。はじめは開放感に満ちていても、徐々に存在が浮遊し、現実世界と自分とが乖離していくような感覚。それをよしとする瞬間と焦燥を覚える瞬間のせめぎあい。それらがあのアパートの一室にあったのではないかと思う。受動的で、だけど能動的になるフックもなく過ぎていく日々。きっとそれでもよかったし、このままではだめだと思っていたのだと思う。
そんな日々を送る裕一をかつて取り巻いていた人間の日々も合間に描かれる。恋人は裕一からの連絡がないことを怒っていて、友人はそんな恋人をなだめ、先輩はバイトに穴をあけた彼に「殴る」と息巻いている。母親は心配して姉に電話し、姉は友人に連絡を入れる。それぞれが心のどこかに裕一を置いている。はずだった。
クリスマスの日、父親の言葉をきっかけにして恋人の留守電に今は父親と暮らしているという報告と、細かいことは忘れてしまったけれど、たしか心配かけて申し訳ないだったか時期がきたら戻りますだったか…とにかく(えっほかには?それでいいの?)とわたし自身は感じた伝言を吹き込む。
いつかは戻るつもりだけど今は逃げている。
でもいつかがわからないからまだ逃げている。
どうしたらいいかわかんない。
だけどいつか戻るから待っていてください?
なんてモラトリアム。そんなに暇なのはお前だけだ。
いや、モラトリアムという事象を否定する気は毛頭ない。たぶんあれも必要な過程なのだ。だけど、他人の時間は自分のそれとおなじ動きではないだろうと。と、思ったんだけど、人間、時として自分の都合のいい解釈するよね。わたしもだ。だけどね。時は刻々と流れていく。裕一は変わらないかもしれないけれど、世界も、事態も、他人も刻々と変わっていく。閉じた世界で二酸化炭素を生成するだけの彼にはわからないだろうが、他人はもしかしたらもっと有益なものを生み出しているのかもしれないし、もっと言えば三次元が四次元に変わっているくらいの劇的な景色が広がっている可能性すらあるのだ。
その伝言を聞いた恋人が力なくそれを友人に伝え、友人は姉に、姉は母親に伝える。それぞれが「まあそう聞いたから一応報告ね」的なニュアンスで。そして観ている側はきっとそうしてなにかがすこしずつ変容しているのを知る。
そんなモラトリアムを体現する裕一にも、ついに能動的になる瞬間がやってくる。自らが奮起したというより母親が倒れたという留守電が恋人によって残されていたからである。こたつに入ったまま「俺はめんどくさいから行かない」と言う父親に「あんたみたいにはなりたくねー!」と啖呵を切って走り出す。走り出したはいいものの、人間はそうすぐには変わることができない。裕一の地元まで母親の様子を見に来た恋人と、年末で帰省していた友人、姉と再会し、母を伺い実家に戻ってはみたものの結局何も言い出せず、立つ瀬もなく部屋の隅でスマホを触り出す始末(アラサー)。その横では微妙な空気感を漂わせ皆が一様に気を使った会話劇を繰り広げているというのに。わたしはもうずっといらいらしていて、はらはらしていて、とてもじゃないけれど裕一に感情移入もできないし、そういう空気感にぞわぞわしてしまうし「なんでもいいから早くなんとか言え!一言でも!」という気持ちが最高潮に達したとき、ぶち切れた姉(江口さん最高)の言葉や恋人の同情めいた言葉に誘われ、裕一がぽつぽつ語り出す。一言で言ってしまえば「どうにかしたいんだけどどうしていいかわからない」と泣いて訴える。
まあ…そう、だよね…そういうときあるよ…うん…
わたし自身も絶対的に感じたことのあるその閉塞に一定の理解を示しつつ、憐みの気持ちさえ持ってしまうわたしは、そのあやふやすぎる時期を超えることができたのかもしれないとも思えたし、あるいは共感能力をなくした冷徹な人間なのかもしれないと思った。それは果たして成長と言えるのか、それとも退化しているのか。彼の言葉をこころでろ過することによってせまる自分の現在のすがたはなかなかしんどい。ただ、この演技を絞り出す藤ヶ谷くんのすがたは胸にせまった。わたしを揺さぶったのはそれにたどりつくまでに悩み苦しみ抜いたのだろうという藤ヶ谷くんの逃げることのない真正面の挑戦だった。しかし当の裕一の「怒られるのが嫌だ」という瞬間的な感情のままに向き合うことから逃げ、思考を放棄し、それによってまわりの人間にもたらした感情を一切無視し、2か月ほど経つというのになにも総括できていないこのザマにわたしは途方に暮れた。わたしならここで線を引いてしまうけれど、やさしいひとはちがうのかな…いや、だけどお姉さんは完全に線を引いたように見えたぞ…というかそもそも留守電の時点ですでに皆に見放されてた感あったよね…いや、でも彼を掬う方法だってあるはずだ…(以下無限ループ)
だけどそれでも世界は続いていく。まわりの人間が再構築してくれる。去り際の友人が裕一にくれた言葉は彼にとってこれからをも予感させる救いだっただろうし、突然の親父の乱入により、大晦日にひさびさに一家団欒のかたちを為したこともあり、裕一は東京に戻ることを決める。先輩にも連絡し「また飲みにいこう」と言われ、彼は変わっていなかった世界に安堵したのだと思う。その証拠に、彼は恋人の家に戻る。戻ってベッドに横たわる。そこへ恋人が帰ってくる。物語が出勤していく恋人と寝起きでベッドに転がる裕一からはじまったように、その風景へ戻っていく。
かと思われたけれど、とめどない違和感が部屋を満たしていて、その正体が浮気尋問の際に「都合が悪くなると訊かれてもいないことまでしゃべるよね」と言った恋人そのひとが、裕一がこれまでのことを話そうとしているそばからさえぎるように関係のない話を繰り出していることだと観ていて気がつく。それでも彼は変わらなかった世界でじぶんを変えようと、話し出す。しかし彼女は言う「裕ちゃんはもうなにも言わなくていい」と。ここから世界は一気に反転する。
彼女の世界にもう彼は存在していなかった。好きなひとがいる、そのひととこれからも会いたいからもう別れたい、途中からあなたのことなんてどうでもいいって思ってたなどと彼女から告げられたうえに「なんでも訊いてください、逃げずに答えます」と泣きながら宣言される。想像できたし、できればはっきり聞きたくなかったけれど、その相手は友人だったし、実家であたたかい言葉をくれたはずの友人が実はあのときすでに恋人とホテルにまでいく関係を結んでいて、彼女が裕一に話したらじぶんも話すという、すごくわかるんだけどなんとも微妙な小狡さを発揮していて、裕一のメンタルがぐりぐりえぐられていくのがわかって苦しくて息をとめた。まあ、そらそやろ、自業自得やろ、って言うのはかんたんだけど、じぶんの人生の中でそうやって自業自得で失ってしまった数えきれないほどのものを思い、吐き気を催さんばかりの自己嫌悪に襲われた。ああいやだ…こんなにむきだしになんてなりたくないのに。どうにか蓋をしていたものをむきだしにされたうえに無防備なそれを引きずり出されて素手でつかまれてつぶされている気分だ。ああ…もう…嫌なことから物理的に逃げ出すことと、見ないふりしてどうにか立っていることとどう違うのだろう。結局のところ解決に至ってはいないという点においては、根本は同じなのではないかとさえ思う。どちらにしろもうそこへは戻れない。
逃げて逃げて逃げ続けてしまった先になにがあるのか。それはわからない。なにもないかもしれないし、新天地が現れるのかもしれない。覚悟しなければいけないことは、振り返ったとき、うしろにはきっともうまるで知らない世界が広がっているということなのだろう。あるいは、見ないふりをしているうちにいつのまにか。彼を否定することは、なんだかじぶんを否定することに思えて、ずるいわたしは結局彼を肯定する。真正面から向き合うこと、考えることを放棄し、まわりをないがしろにしたことがわたしにも確かにたくさんある。結局さっき情けないと吐き捨てるように思った彼はただのわたしじゃないか、と泣きたい気分だった。だけど、どれだけ失敗し、死ぬほど後悔しのたうちまわって痛い思いをして、たとえそれを胸の奥底に沈めていたとしても、なくなったわけじゃない。なにかのきっかけでそれがあふれ出し、選択を変えることもある。そのくりかえしでなんとか前に進んでいるのではないか、ミリ単位でも成長しているのではないかという実感と勘違いをくりかえし、折り合いをつけながら生きてきたこともたしかだ。
短絡的な行いによって、瓦解するこれまでの世界。そのがれきのうえでひとり、彼が見たのは絶望の景色だったかもしれない。だけど呼吸が続くかぎり、それは希望になりうるのだと、いや、それこそが希望なのだとわたしは思いたい。終わってしまったもの、壊してしまったものを思いながら、建て直し、あたらしくはじめる。そして再び躓いては立ち止まり、それでもまた歩き出す。生きていくことはその途方もないくりかえしだ。どれだけ落とし前がつけられるのかもわからないし、いびつなまま終わってしまうのかもしれない。じぶんをどれだけすきになれるのかもわからないし、きらいなところは存在し続けるにちがいない。また誰かを傷つけてしまうかもしれないし、なにかを失い続けるだろうし、孤独と無縁になることはない。それでも生きているかぎり、と終幕前、光のむこうへ肩を落として歩いていく裕一のすがたを眺めながら、その先も彼の呼吸が続いていくことを願ってやまなかった。
*1:新世紀エヴァンゲリオンの主人公:碇シンジくんの台詞