舞い散る日々のなかで踊れ

散財していくタイプのおたく。

それでも呼吸は続いていく──「そして僕は途方に暮れる」観劇

3月20日(火) Bunkamuraシアターコクーンにて「そして僕は途方に暮れる」を観劇した。ネタバレ含むので知りたくない方はご注意願います。

わたしは兼ねてからこういう役を演じる藤ヶ谷くんを観たいと切望していた。

ふだんはアイドル=きらきらを体現するかのごとくステージに立ち続けつつも、真面目で努力家であり、完全無欠の好青年さを崩すことのない彼が時折垣間見せる影のようなものを暴いて剥き出しにするような役が来ないだろうか、とずっと考えていた。おそらく藤ヶ谷くんは概ね好青年であると思う。あくまで表面しか知らないけれど、あれがすべて作られた虚像だとはまったく思えない。人知れず葛藤したり苦悩する日々は当然あるにせよ、きちんとしたひとだという印象はこの5年ほどにおいて変わっていない。けれど、どこか危うげな雰囲気があるのもまた感じていて、生まれついての陽性とも言い切れないその微妙な部分に意味を見出すような、そんな作品に巡りあう瞬間をどうにか見ることができないものかと切々と考えていた。

役の性格や方向性は今回とは違うかもしれないけれど、それを観ることができる期待感は「コルトガバメンツ」にもあった。ただ、わたしはチケットを外して結局一度も観ることができなく、それはジャニヲタ歴の中で唯一と言っていいほどの後悔であり、ある種のトラウマのようなもの、というか、あれを見逃してしまったことによってできた穴のようなものは、結果的に「ジャニーズオールスターズアイランド」までわたしを舞台から遠ざけた。そういう後悔を二度としないように行けるかぎりは見逃さないようにしようと考えるのがふつうなのかなとも思うし、そうしたほうがいいのだろう。今になって考えるとどうしてそんなに「コルトガバメンツ」以外の舞台に立つ藤ヶ谷くんを観ないことにこだわったのか、理由もあいまいだ。ただただそうだったとしか言いようがなく、ひとつひとつの仕事にていねいに向き合う藤ヶ谷くんに対して、失礼極まりないような応援の仕方だということも重々承知している。わたしのただのエゴだ。

さて、今回の「そして僕は途方に暮れる」の藤ヶ谷くんの役どころは、一言で言えばクズだった。自身のことをクズと自覚しているわたしが「うわ、こいつくっそクズやな」と思ってしまうほどのどクズだ。悪い奴ではないと思うけれど、クズの自覚がないところとクズの自覚があるところが同居しているような具合で、彼女(前田のあっちゃん。かわいい)よく何年も付き合って同棲までしてるね???って思ったのわたしだけじゃないはずだと確信している。いや待てよ、でもわたしすきだったらクズでも許しちゃうからな…って思ったけれども、それは考えるのをやめよう。

この作品における彼(アラサー)の保有スキルは「(原因は自分にあるのに、それを責められたり怒られたりするのが嫌で話を逸したりごまかしたりしながら)とりあえず物理的にその場から逃げ出す」だ。

誰しわたしも逃げたいときはある。物理的に。たまに逃げてしまうときもある。つぶれてしまうくらいなら、むしろ逃げたほうがいいときだってあるし、ほんとうに嫌なことからはきっと逃げたってかまわないのだ。むかし勤めていた店舗で、先輩がひとりで閉店作業後、受付に退職届をそっ置きしたのか叩きつけたのかは知らないけれど、とにかくそれだけ置いて、翌朝から出勤しないなどという離れ業を見せたときから、今日に於いても仕事で追いつめられた時、そうしてしまおうかと沸点に達しそうになる瞬間がある。でもわたしは今日に至るまで一度もそれを実行できていない。

逃げてしまったあとのことを考えると、なかなかそこまで突き抜けられない。放り出すことはかんたんな解決方法に見えて、あとあと自分の首を絞めることのほうが多いだろうからやめておこう、とわたしは思ってしまう。いかんせん「逃げちゃダメだ逃げちゃだダメだ逃げちゃダメだ…やります!僕が乗ります!」*1を発想してしまう人間(おたく)としてはことさら。そしてデーンデーンデーンデーンドンドン「状況は!?」という具合でなんとか生きている。とはいえ、カジュアルな逃走はたまにやってるね。どうしようもなくどうしようもない日に早退とか。あは。適当にやってるのかもしれない。いいわけが許されるならば、それは逃避ではなく、建て直しをはかるための戦略的な撤退とも言える。それと最近はまれに「考えることを脳が拒否する」モードがあって、物事の輪郭を捉えつつもただ頭にそれらが入っては流れて漂っているだけ、という状態が発生する。これも一種の逃げかなあ。でも、うーん。いただけない。ただでさえ乏しい思考力、知的生産術、感受性、情緒。それらが死んでいく気がする。

そんなことは置いておいて、むかしでは画期的に見えたその手法も、今ではよくある話として片付けられるし、そもそも退職届すら出さずに消えるというし、現在の職場でもそういえば何人かバイトがそうやって消えたなと考えると、インスタント逃走劇ってのはもしかしたらわりとスタンダードになっているのかもしれない。

藤ヶ谷くん演じる裕一は、じぶんの醜さをあけっぴろげに見せてまで浮気疑惑について問いただす恋人との対話から逃げ、家に置いてくれた友人に振る舞いを窘められたことから逃げる。依存を深めれば深めるほど、反動のようなそれに耐えられなくて、先輩を頼り、友人に注意されたことだけは直してそこで居候するも浮気の偽装工作に一枚噛まされたことをめんどうがられ、後輩に「逃げ続ける裕一さんまじかっけーっす!なかなかほかのひとにはできないっすよ!」と煽られ、また彼は逃げていく。

冒頭、スクリーンに裕一のスマホ画面が映る演出で、姉と母親からの連絡を無視しているのがわかるのだけれど、結局行くあてのなくなった裕一は姉を訪ねて詰られ、母の元に帰るも離れていたあいだに変化を遂げていた母親からも逃げる。

このあと裕一は同じく色々なことから逃げている父親(クズ)と再会し、行き止まりに当たったかのように思えた。ふたりでこの世の果てのような狭いアパートの一室で生産性のない日々を送り、社会の歯車から外れ続ける。想像するにこれはおそらく、感じているかいないかはべつとして、深い孤独だ。つぎつぎに人間関係を絶って頼る人間がいなくなっていくことでじりじりと感じていく孤独の最果てだ。はじめは開放感に満ちていても、徐々に存在が浮遊し、現実世界と自分とが乖離していくような感覚。それをよしとする瞬間と焦燥を覚える瞬間のせめぎあい。それらがあのアパートの一室にあったのではないかと思う。受動的で、だけど能動的になるフックもなく過ぎていく日々。きっとそれでもよかったし、このままではだめだと思っていたのだと思う。

そんな日々を送る裕一をかつて取り巻いていた人間の日々も合間に描かれる。恋人は裕一からの連絡がないことを怒っていて、友人はそんな恋人をなだめ、先輩はバイトに穴をあけた彼に「殴る」と息巻いている。母親は心配して姉に電話し、姉は友人に連絡を入れる。それぞれが心のどこかに裕一を置いている。はずだった。

クリスマスの日、父親の言葉をきっかけにして恋人の留守電に今は父親と暮らしているという報告と、細かいことは忘れてしまったけれど、たしか心配かけて申し訳ないだったか時期がきたら戻りますだったか…とにかく(えっほかには?それでいいの?)とわたし自身は感じた伝言を吹き込む。

いつかは戻るつもりだけど今は逃げている。

でもいつかがわからないからまだ逃げている。

どうしたらいいかわかんない。

だけどいつか戻るから待っていてください?

なんてモラトリアム。そんなに暇なのはお前だけだ。

いや、モラトリアムという事象を否定する気は毛頭ない。たぶんあれも必要な過程なのだ。だけど、他人の時間は自分のそれとおなじ動きではないだろうと。と、思ったんだけど、人間、時として自分の都合のいい解釈するよね。わたしもだ。だけどね。時は刻々と流れていく。裕一は変わらないかもしれないけれど、世界も、事態も、他人も刻々と変わっていく。閉じた世界で二酸化炭素を生成するだけの彼にはわからないだろうが、他人はもしかしたらもっと有益なものを生み出しているのかもしれないし、もっと言えば三次元が四次元に変わっているくらいの劇的な景色が広がっている可能性すらあるのだ。

その伝言を聞いた恋人が力なくそれを友人に伝え、友人は姉に、姉は母親に伝える。それぞれが「まあそう聞いたから一応報告ね」的なニュアンスで。そして観ている側はきっとそうしてなにかがすこしずつ変容しているのを知る。

そんなモラトリアムを体現する裕一にも、ついに能動的になる瞬間がやってくる。自らが奮起したというより母親が倒れたという留守電が恋人によって残されていたからである。こたつに入ったまま「俺はめんどくさいから行かない」と言う父親に「あんたみたいにはなりたくねー!」と啖呵を切って走り出す。走り出したはいいものの、人間はそうすぐには変わることができない。裕一の地元まで母親の様子を見に来た恋人と、年末で帰省していた友人、姉と再会し、母を伺い実家に戻ってはみたものの結局何も言い出せず、立つ瀬もなく部屋の隅でスマホを触り出す始末(アラサー)。その横では微妙な空気感を漂わせ皆が一様に気を使った会話劇を繰り広げているというのに。わたしはもうずっといらいらしていて、はらはらしていて、とてもじゃないけれど裕一に感情移入もできないし、そういう空気感にぞわぞわしてしまうし「なんでもいいから早くなんとか言え!一言でも!」という気持ちが最高潮に達したとき、ぶち切れた姉(江口さん最高)の言葉や恋人の同情めいた言葉に誘われ、裕一がぽつぽつ語り出す。一言で言ってしまえば「どうにかしたいんだけどどうしていいかわからない」と泣いて訴える。

まあ…そう、だよね…そういうときあるよ…うん…

わたし自身も絶対的に感じたことのあるその閉塞に一定の理解を示しつつ、憐みの気持ちさえ持ってしまうわたしは、そのあやふやすぎる時期を超えることができたのかもしれないとも思えたし、あるいは共感能力をなくした冷徹な人間なのかもしれないと思った。それは果たして成長と言えるのか、それとも退化しているのか。彼の言葉をこころでろ過することによってせまる自分の現在のすがたはなかなかしんどい。ただ、この演技を絞り出す藤ヶ谷くんのすがたは胸にせまった。わたしを揺さぶったのはそれにたどりつくまでに悩み苦しみ抜いたのだろうという藤ヶ谷くんの逃げることのない真正面の挑戦だった。しかし当の裕一の「怒られるのが嫌だ」という瞬間的な感情のままに向き合うことから逃げ、思考を放棄し、それによってまわりの人間にもたらした感情を一切無視し、2か月ほど経つというのになにも総括できていないこのザマにわたしは途方に暮れた。わたしならここで線を引いてしまうけれど、やさしいひとはちがうのかな…いや、だけどお姉さんは完全に線を引いたように見えたぞ…というかそもそも留守電の時点ですでに皆に見放されてた感あったよね…いや、でも彼を掬う方法だってあるはずだ…(以下無限ループ)

だけどそれでも世界は続いていく。まわりの人間が再構築してくれる。去り際の友人が裕一にくれた言葉は彼にとってこれからをも予感させる救いだっただろうし、突然の親父の乱入により、大晦日にひさびさに一家団欒のかたちを為したこともあり、裕一は東京に戻ることを決める。先輩にも連絡し「また飲みにいこう」と言われ、彼は変わっていなかった世界に安堵したのだと思う。その証拠に、彼は恋人の家に戻る。戻ってベッドに横たわる。そこへ恋人が帰ってくる。物語が出勤していく恋人と寝起きでベッドに転がる裕一からはじまったように、その風景へ戻っていく。

かと思われたけれど、とめどない違和感が部屋を満たしていて、その正体が浮気尋問の際に「都合が悪くなると訊かれてもいないことまでしゃべるよね」と言った恋人そのひとが、裕一がこれまでのことを話そうとしているそばからさえぎるように関係のない話を繰り出していることだと観ていて気がつく。それでも彼は変わらなかった世界でじぶんを変えようと、話し出す。しかし彼女は言う「裕ちゃんはもうなにも言わなくていい」と。ここから世界は一気に反転する。

彼女の世界にもう彼は存在していなかった。好きなひとがいる、そのひととこれからも会いたいからもう別れたい、途中からあなたのことなんてどうでもいいって思ってたなどと彼女から告げられたうえに「なんでも訊いてください、逃げずに答えます」と泣きながら宣言される。想像できたし、できればはっきり聞きたくなかったけれど、その相手は友人だったし、実家であたたかい言葉をくれたはずの友人が実はあのときすでに恋人とホテルにまでいく関係を結んでいて、彼女が裕一に話したらじぶんも話すという、すごくわかるんだけどなんとも微妙な小狡さを発揮していて、裕一のメンタルがぐりぐりえぐられていくのがわかって苦しくて息をとめた。まあ、そらそやろ、自業自得やろ、って言うのはかんたんだけど、じぶんの人生の中でそうやって自業自得で失ってしまった数えきれないほどのものを思い、吐き気を催さんばかりの自己嫌悪に襲われた。ああいやだ…こんなにむきだしになんてなりたくないのに。どうにか蓋をしていたものをむきだしにされたうえに無防備なそれを引きずり出されて素手でつかまれてつぶされている気分だ。ああ…もう…嫌なことから物理的に逃げ出すことと、見ないふりしてどうにか立っていることとどう違うのだろう。結局のところ解決に至ってはいないという点においては、根本は同じなのではないかとさえ思う。どちらにしろもうそこへは戻れない。

逃げて逃げて逃げ続けてしまった先になにがあるのか。それはわからない。なにもないかもしれないし、新天地が現れるのかもしれない。覚悟しなければいけないことは、振り返ったとき、うしろにはきっともうまるで知らない世界が広がっているということなのだろう。あるいは、見ないふりをしているうちにいつのまにか。彼を否定することは、なんだかじぶんを否定することに思えて、ずるいわたしは結局彼を肯定する。真正面から向き合うこと、考えることを放棄し、まわりをないがしろにしたことがわたしにも確かにたくさんある。結局さっき情けないと吐き捨てるように思った彼はただのわたしじゃないか、と泣きたい気分だった。だけど、どれだけ失敗し、死ぬほど後悔しのたうちまわって痛い思いをして、たとえそれを胸の奥底に沈めていたとしても、なくなったわけじゃない。なにかのきっかけでそれがあふれ出し、選択を変えることもある。そのくりかえしでなんとか前に進んでいるのではないか、ミリ単位でも成長しているのではないかという実感と勘違いをくりかえし、折り合いをつけながら生きてきたこともたしかだ。

短絡的な行いによって、瓦解するこれまでの世界。そのがれきのうえでひとり、彼が見たのは絶望の景色だったかもしれない。だけど呼吸が続くかぎり、それは希望になりうるのだと、いや、それこそが希望なのだとわたしは思いたい。終わってしまったもの、壊してしまったものを思いながら、建て直し、あたらしくはじめる。そして再び躓いては立ち止まり、それでもまた歩き出す。生きていくことはその途方もないくりかえしだ。どれだけ落とし前がつけられるのかもわからないし、いびつなまま終わってしまうのかもしれない。じぶんをどれだけすきになれるのかもわからないし、きらいなところは存在し続けるにちがいない。また誰かを傷つけてしまうかもしれないし、なにかを失い続けるだろうし、孤独と無縁になることはない。それでも生きているかぎり、と終幕前、光のむこうへ肩を落として歩いていく裕一のすがたを眺めながら、その先も彼の呼吸が続いていくことを願ってやまなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:新世紀エヴァンゲリオンの主人公:碇シンジくんの台詞

辞書のいらない時代に広辞苑とあそぶ。

 なんだかすごく「言葉」とは。ということを考えたい衝動にここのところ突き動かされていた。言葉というものに真正面から向き合って考え込んだり、斜めから眺めておもしろがったりしたいと思っていた。あしたすぐに仕事や生活の役に立つわけではないかもしれないし、お金にだってならないけれど、強制されずともとっかかりたいと感じたことには素直に従っておくべきだ。すくなくともわたしはそう考えている。

と言っても、そんなに複雑なことではない。わたしはジャニヲタなので、たとえば舞台なりコンサートなりを観て、湧き出た気持ちをよりただしいニュアンスで表す言葉をそれほど持っていない、くやしい、みたいなことがままある。そういうときにわたしって言葉知らねーな語彙もってねーなと気がついて、なんかやだなあと思うことが動機にもなっている。それに最近よく耳にする横文字系の新しい言葉の意味とかあまり知らないなとか。書店に並んでいるビジネス書や自己啓発書のタイトルについているような。

膨大な量の言葉をただインプットしたところで結局、それがどういう意味なのかどういうときに使うべきなのかをきちんと自分の中で理解して落とし込まなければ本当の意味で知っていることにはならない。

これはどちらかといえば類語辞典の領分だと思うけれど「悲しい」という感情を表す言葉ひとつとっても、自分の経験と結びつけて「あのときの悲しさの度合いや感触はこの語感」とか「いや、あの日の体験はただ悲しいというより虚しさもあったからこっち」というふうに小分けにしていきたいし、適切なタイミングで引き出すための引き出しをたくさん持ってもっと言葉と遊びたいのに!とつらつら考えていた。

 そんな中、今年の出版業界における大きなトピック「広辞苑 第七版」(岩波書店)の発売がやってきた。

広辞苑 第七版(普通版)

広辞苑 第七版(普通版)

 

 当初は購入するつもりも欲しいと思う気持ちもまったくなかった。以前のものが家に2冊ほどあるけれど、ネットでなんでも調べられる時代に辞書をひく機会も失われ、ただ分厚くて重いそれは開かれることがない。けれど職場に(書店員なので)並んだ、黒いカバーのかかった厚い箱入りの辞書を見て猛然と「欲しい」と思った。そして、買わなければいけない、という強迫観念にも似た衝動に駆られた。たぶんその欲望と衝動の半分はあのキャッチコピー「ことばは自由だ」のせいだ。

そうか言葉は自由なんだ!自由でいいんだ!と唐突に思った。言葉とはなにかと脳内で浮かべるとき、どこか、その価値のようなものを念頭において考えていたことに気がついて、けれどそんなことすら無意味なくらい言葉は自由で無秩序ないきものなのだと思った。そうしたらもう追いかけっこしてつかまえたくなって、だけどつかまえることなんてできないだろうと感じ、それでも手を伸ばして知りたくなった。

言葉は日常にあふれ、あまりにあたりまえのそれらをわたしは簡単に消費していく。けれど使い方や意味がすこしづつ変化したり増える言葉、まったく新しい言葉、むかしからずっと変わらない言葉と、いつでも時代とともにあるたくさんのそれをここでがっつり受け止め、改めて知りたくなった。それでなんで広辞苑?っていうのは単にそういう気分のときにたまたま出版されてしまったから、というノリのようなものと、付録といいつつハードカバーくらいある付録(アルファベット略文字の解説とか手紙の書き方とか載っている)や三浦しをんさんの特典小冊子(といいつつ文庫本くらいある)「広辞苑をつくるひと」もおもしろそうだしくらいの。

それを家で話したら実は母親がずっと買おうか迷っていたらしく、さっそく我が家は広辞苑を手に入れる運びとなった。

母親曰く、広辞苑にかぎらず辞典というのは「紙のうえでネットサーフィンしているような感覚」らしいのだが、なるほどなと思う。ひとつの言葉を調べたとき、かならずべつの言葉で説明してあるので、そのなかに知らない言葉があればまた辞典をめくる、めくると隣の項目が急に気になったりする…みたいな。「意味を知る」という目的においてはインターネットと変わりはないけれど、ただ検索ボックスに知りたい単語を入れて調べるのとは微妙にちがう。出会いがしらの衝突みたいな感覚で言葉と出会えるかもしれない。なにもかもが便利になりすぎていて、目的に到達するいちばんの近道が容易に用意されている時代に、わざわざまわり道や遠回りすることがたまにはあったっていいんじゃないかとも思えた。

とりあえず、前述したようにわたしはジャニヲタなので「じ」の項目を開いた。「ジャニーズ」は載っていなかった…(当たり前)。そこで「お」のページを開いて「おたく」をひいた。

おたく【御宅】

①相手の家の尊敬語。

②相手の夫の尊敬語。

③相手または相手方の尊敬語。

④(多く片仮名で書く。仲間内で相手を「御宅」と呼ぶところからの称)特定の分野・物事には異常なほど熱中するが、他への関心が薄く世間との付合いに疎い人。また広く、特定の趣味に過度にのめりこんでいる人。「アニメ─」

 

広辞苑 第七版より

 いや、わかるよ?

言いたいことわかるよ。おたくであるわたしはめっちゃ笑った。

でもこれだと、なんていうかな、なんかすべてにおいて「これだからおたくは」って斜めに視がちな風潮止まんないよな。いや、もう単なる文字面から受けた感覚なので、うまく言語化できないのだけれど、たとえばなにか事件が起きたとき「人付き合いもなく、部屋にはアニメのディスクが積まれ…」とか安易に犯罪とおたくを結び付けがちなところとかね。言いたいことはすごくわかるし、ここに載っていることがすべてでもないし、むかし「おたく」に対してそういうイメージが多かったのかもしれないけれど、おたくだって時代とともに変わってるいるよね。

広辞苑」というある側面から見た言葉とそれぞれが抱くイメージは違うし正解はひとつじゃないけれど、ある言葉を端的に一般的に説明しようとするとき、ものすごく難しいと同時にそこにおもしろさがあるのだろうと思うとやっぱり言葉はかんたんにつかまえられる代物じゃないな、と思う。だからこそより知りたいし考えたいしおもしろがりたい。

今のところ楽しい活用方法として試みたいのが、どれくらいの項目があたらしく増えたのかということ。家にあるいちばん新しいものが「第四版」なので、ふたつ同時に順番にめくったらなにが増えているのか。ほぼ広辞苑の「こ」の字も知らないようなころに出たそれに載っていない言葉のなかには、今のわたしの生活に馴染みきっているものがつぎつぎ飛び出てくるだろう。刷新をくりかえし、変容していく時代の流れを言葉を通して実感することで、なにかまたひとつ、あたらしい景色を観ることができたら、とわたしはすこし期待している。

ホロスコープはかく語りき。

先日、創作活動について深く掘り下げてホロスコープを読んでいらっしゃる水煮さんという方に鑑定していただいた。わーい!!ホロスコープ鑑定初体験!!

 

▽水煮さんのブログ

hoshican.jp

 

ことの経緯は、腐りかけていた夏、今まで以上に異常に占いを読む→そのうちに個人のホロスコープというものが存在していることを知る→なんやかんや調べているうちに水煮さんの創作活動とホロスコープについてのブログにたどり着く→思いきって鑑定をお願いする、である。

約4年前に突然変異のごとく発生した「ジャニーズかわいい(^q^)」をひたすら呪詛のように書き連ねる場所として、ここ2年ばかりはてなブログに席を置いているけれど、べつにジャニーズがかわいくなくてもわたしはどこかでなにかを書いていたと思うし、これまでもそうしてきた。媒体としてブログを選ぶとき、なにかしらの着火材があるのが前提なので今はたまたまジャニーズ+αについて書いているけれど、もともとは創作活動に重きをおいていて、ここ何年かは二次創作しかしていないにしても、わたしはだいたいにして書くのがすきだし、書いていないとしぬっていうか、頭の中で渦巻いているものを文字にしないと膨れ上がりすぎた脳がたぶん破裂すると思う。それにじぶんが口で話すよりなにより文章がいちばん饒舌で、素直になりやすい手段だと捉えているからだという気がする。

けど下手の横好きって言うやん?それすぎてつらみしかないんだけど、頭の中にある感覚やイメージ、浮遊しているものをうまく表現できなくて、それに詰まったら止まるし、でもそこにこだわりたくて考えるうちに逆に散漫になって気分乗るまでほっとこって思ってたら2年くらい経ってた。たまに書いても結局PCに未完がたまっていく一方に…書いたらそれで満足じゃなくて創作したらやっぱり誰かに見せたいじゃん!は?承認欲求モンスター?うるせえ。

もう満足したのかなとも感じている部分もあったし、もういっか~~~~~って投げやりにもなったけれど、やっぱり継続したくて水煮さんにお願いしたんだと思う。でも、鑑定してもらうまでの数日間「いや、向いてないですね」とか言われたらブログも含めて書くことをすべて辞めようくらいの勢いでいた。だいたいが極端。オールオアナッシング、それが蠍座。どこかで読んだ。

過去に、友達に連れていかれて行った霊視ができるという占い師にくそみそに自分を否定されて以来、誰かに個人を鑑定してもらうのはもうたくさんだと思っていたし、雑誌の星座占いだけ読んでいいことだけ信じてますけど?というスタンスでやってきたので、おそらくなにかきっかけを欲していたのだと今となっては思う。

ちなみにわたしは個人のホロスコープを究極の個人情報だと考えているので、全体図を貼る??いやいやちょっと無理っすねwってかんじだから、太陽と月は蠍座水瓶座にいますとだけ。月星座は作風が現れたり、物語の落としどころとして活かせるそう。

 

いや…結果から言うともう

ホロスコープこわい。ほんとこわい。

言ってしまえば個人のホロスコープはじぶんが生まれた日と時間、場所における天体の配置でしかない。だけどその配置に思い当たることがいろいろと映し出されたらもう恐怖でしかなくない?信じるか信じないかはあなたしだい!ってレベルじゃなくて、「これ信じなくてなに信じるんだ?」(真顔)ってくらいのレベル。一生に一度くらいは、みんな見てもらってもけっこうおもしろいんじゃないかな?と思う。占いが当たるとか当たらないとか「そのうち~でしょう」「いつか~かもしれません」とか抽象的なものというよりも、こういう生き方をしやすいから、たとえば膠着状態になったときこうするといいよ、なぜなら…と理論的に答えを提示するのに近いかもしれない。理系っぽいっていうか。わたしの場合だと「人からの刺激で動くタイプ」「家の中でいろいろするかんじ」なホロで、それほんとわかりみと自覚しかないんだけど、だからこそ「外向きな活動してバランスとったり、フィードバックないと疲れちゃうよー」みたいな。このあたりは通常のホロスコープ鑑定でも言われたりするのかもしれないけれど、冒頭でも書いたように、水煮さんはそれらではなかなかフォローしきれないこと…創作するうえでの悩みだったり、自分の強みや武器だったり、具体的な時期とかも、いろいろな角度からアドバイスをいただいた。

とりあえずまず「そろそろ世の中に出せよ」(ニュアンス)って言われたので「できない」とか「は~~~無理」「時間が…」とか言ってないで出そう。

「エネルギーの使い方、配分がテーマ」っておはなしが出て、あ~~~それ原因のひとつかも、って感じた。要は配分が下手くそだから時間もないし情熱がさまようんですね…っていう。ひとつのものにエネルギーをかたむけると、それ以外へ注ぐエネルギーをほぼなくす。オールオア…だから仕事仕事ってなってると、創作への情熱が涸れるし、たぶんそれがこの2年だったのかなあとも思いあたったんだけど、実際の水煮先生の心中はいかに。ジャニーズ見て「はい、かわいさの極み~~~~~~~」とか毎晩IQ溶かすのは同時進行できるけど、それたぶんたいしてエネルギー使ってないんだろうな。まあIQ溶けてるくらいだし。

じゃあいっそのこともうそういう場面で「いやそれは無理無理、わたしこっちにエネルギー使いたいんで」とかたまには自分のモンペ発動させるくらいの勢いでもいいのかな…?と思って

「それって無視しちゃってもいいんですか?」って聞いたら

「いや、無視はできないと思いますね」って返ってきて、だよねーーーーーーーーーーーーーーーってなった。だからこそ自ら考える必要があるわけで。極端なエネルギーの使い方をしていることは心当たりがあるので、もうちょっと、こう、柔軟になれよ!ってかんじか…あわわ…あたま固すぎな。

 事前に作品をお渡しするとそれを踏まえたうえでさらに鑑定してくださる。じぶんがこれまで苦手だと感じていたことや、なかなかうまくいかずにずっと模索していた面に実は風っぽさ(水瓶座のエレメント)が出ていたり、蛇足なのかもしれないけどなくしたくないっていう謎のこだわりの部分をちゃんと書くことがモチベーションにつながったりもするよというおはなしもあって興味深かった。わたしはホロスコープを読めないので、まちがっているかもしれないけど、もしかしたら水(蠍座のエレメント)から眺めるから苦手だと感じたり「あーーーーこれじゃあだめだーーーー」とぐしゃぐしゃしたくなるのかなってイメージなのかな?と思った。かといって意識的に風から眺める方法なんて具現化できないけど…あとは、書きやすいテーマみたいなことも具体的に伺える。

「マニアックな人に向けて」ああ…言われたらなんかすごく納得しかない…「物議をかもすもの」それ書きたいな思いつつ(道徳的に反してるから…)と思うとつい封印しがちなやつ…「理想を押し付けられているひと」「犠牲になっているひと」なんかわかる…すげえわかる…そういうひとや作品すき…そういう解釈にたどり着きがちなキャラクターすきになったりもする…あっ「アイドルとかいいかも」って言われた!アイドルの苦悩…?浅井リョウ先生の「武道館」とか綿谷りさ先生の「夢を与える」とかが脳内にぽんって飛び出てきた…というかあれ?わたしアイドルをすきになったのって少なからずそういう影の部分にも魅力を見出していたのかな。無自覚の意識だけど。

と、まあこういう濃いはなしを1時間聞ける。すごくおもしろい。ちなみにSkypeでの通話鑑定だと3000円。水煮さん、この密度でこの設定は安すぎでは…?

創作以外のことも訊けるということで

「わたし、仕事で成功しますか?」

と大味な質問を投げてしまい、

「すごい質問ですね、なにを持って成功と言うかわからないですが…」

と水煮さんをたいそう戸惑わせてしまった。

おもに給料面の不安から転職をずっと迷いつつでもいまの仕事すきだしな~とかこのまま行っていいのかなとかそういう悶々とした悩みを抱えているのが現状なのだけれど、あとあと考えると「あーこの仕事選んでよかった!」って満足して死ねるか、じぶんの全力を出し切れるのか、そしてプラスアルファとしてそれが安定をもたらすのか、ということが訊きたかったんじゃないかと思う。

 「華々しくどこかの企業で活躍するというよりは在宅が向いているかも」

「えっいま接客業…!」

しかもどこかの企業で…!やっぱりまた転職目論んだりするのかないつかのわたしw現状ではなんの想像もつかないw最後にじぶんがどうなっているのはまったくわからないし、それはそんときってかんじだけど「他人に合わせない人生」がテーマ的な部分っていうのには「(わーお)」しかない。実際あんまり合わせてないけど、変なところで合わせたり変に気を使って、結果として「なんだこいつ」ってなってること多いかもしんない…人付き合い下手すぎるんだよな…やばい書いててつらくなってきた。

いや!でもここ一年がんばりどきって言われたからぜんぶ含めてがんばろう。5年後あたりが大きく動く年だからたのしみですね、とも教えてもらったし!

とにかく今回はとても貴重な体験をさせてもらって感謝です。

こんなはじめてを経験することになるなんて、ほんと人生なにが起こるかわからない。

でもそれもホロスコープには出ているんですよフフ…とかもし言われたら、やっぱりホロスコープはこわい!!

 

 

おたく的備忘録②ジャニ活まとめ2017

今年、ジャニーズに割いた時間が多かったのか少なかったのか1年経ってみるとよくわからないけれど、いまのわたしの人生を構成しているものの一部に確かに「ジャニーズ」というものがあって、異質だったそれはいつのまにかとても馴染んで当然になっている。そして年々過ぎるのが早くなる1年を右往左往しているうちに、わたしは無意識的にジャニヲタ歴を更新していく。そろそろ5年くらいになるので飽和してくる可能性もあるはずだが、気配もなく今年の12月も年末の歌番組観て紅白観てカウコン観ているのだろうし、来年も新しくリリースされるものやコンサートを心待ちにしながら日々の仕事をこなす自分が想像できる。まあキスマイとかツアーあるのかはわからないけど…

たまにふと「どうしてジャニーズが好きなんだろう」と浮かぶときがある。そんな意味のないこと考えても答えは出ないから、たいていうやむやにしてわたしはまたあの世界に飛び込んでいく。たぶん理由なんてそれほど重要じゃない。このあいだ休憩中に、更新されていたクリスマス&新年のメッセージを顔を浮かべながら上から順番に見て「ジャニーズって控えめに言って最高じゃない?」とか思っていた。おたくちょろい。ひとつのメッセージをとっても個々が垣間見えたし、それぞれが個性的でジャニーズって奇跡の集合体だな?とか考えてた。

それはさておき、まず2017年の楽曲ベスト3から。

 

■2017年の楽曲ベスト3■

赤い果実/Kis-My-Ft2

赤い果実(DVD付)(初回生産限定盤A)

赤い果実(DVD付)(初回生産限定盤A)

 

 今年のキスマイのシングルはわりとどれも好きな路線ではあったんだけど、「赤い果実」に関しては2017年わたしチャートにて2017年末ギリギリに初登場1位に躍り出た。自分みたいなファンにとってはけっこう力技的でもっていかれた印象。とくにサビのメロディとフレーズが素晴らしい。これはわたしの、所謂萌え属性的なもののせいもあるのかもしれない。

赤い果実が成る丘に 今 駆け上がろう

とか言われたら手を取り合って(とは言ってない)駆け上がりたいし、

届きそうで 届かない未来は 僕が取ってあげる いいだろう?

いいに決まってる(むせび泣き)。ってなる。

まじめな話、前々回に今の自分はキスマイ担とは自信を持って言えないから担当を持たないこともひとつの選択肢じゃないかというようなブログを書いたわたしが言うのもどうなのか?とも感じるけれど、キスマイって今年はなかなか厳しかったんじゃないかな、と。で、そういう状況でも「届きそうで 届かない未来は僕が取ってあげる」っていうのはなんだろう、いつもみたいにしんどい、って言葉でまとめるのは簡単だけど、そうじゃなくて、「ベストヒット歌謡祭」ではじめてちゃんと歌詞を見て、もうなんて言ったらいいかわからなかったし、2番とラストのサビに出てくる

僕の心には君が必要だ

 このフレーズには言葉を失った。重すぎる。これまでのシングル曲においてここまで”今キスマイがこの曲を歌う意味”を感じたことはなかったかもしれない。これはあくまで個人的な解釈なのであしからず。つーかこうやって勝手に意味を見出だしたり、解釈沼にはまったりしてまた重くなるのを本当はやめたいんだよ!!

にしても、こういう毒っ気が効いた曲はこれまであまりなかったのでは?らしいんだけど新しい、みたいなかんじ。おたく的にいえば「ベストヒット歌謡祭」のときの藤ヶ谷くんの最後のキメ顔も、前髪で目が隠れがちアンニュイなMステの藤ヶ谷くんにも心から震えました。くっそ、やっぱかっこいいな。

それと初回限定盤Bのゆるスポーツ選手権は最高です。とくに玉森くんが。

中越しのチャンス/亀と山P

背中越しのチャンス(通常盤)

背中越しのチャンス(通常盤)

 

 修二と彰のときはおたくではなかった。その12年後にまさかテレビを視ながら「かわいい;;;;」を連発していることになるとは…人生ってこわい。

まず亀と山Pっていうユニット名がパワーワードすぎるし、CDの売上市場に違いはあるにせよ12年前も今も1曲を一発で最前線にぶちあげられるこのふたりが純粋にすごいと思う。ふたりのユニットの復活は2017年のジャニーズの重大トピックの中に間違いなく入るという側面からもこの曲は絶対に外せない。にしてもこの曲の歌っている番組の録画を観るとだいたい「かわいい」しか出てこなくて困る。IQ溶けてる。

「は~~~かわいい~~~かわいいよ~~~」言いながら毎度振り踊ってしまうわたしはきもみしかない。

Tokyo holic/関ジャニ∞

なぐりガキBEAT(通常盤)

なぐりガキBEAT(通常盤)

 

 「関ジャニ‘sエイターテイメント」のBDを観た感想の記事に書いたので詳細は割愛するけど、主にテレビというメディアにおいての関ジャニ∞のイメージを色濃く受け取っていたわたしに、それだけではない彼らの魅力やすごさを知るきっかけを与えてくれた楽曲。あと今年、世間におけるジャニーズアイコンとしては、関ジャニ∞が無双していた1年だったように感じる。

ほかにはV6先輩の「Can`t Get Enough」やKinki先輩の「The Red Light」もむちゃくちゃかっこよくてすき。

 ■2017年ベストアルバム■

▽ジャム/関ジャニ∞

ジャム(通常盤)

ジャム(通常盤)

 

 この1枚だけでしんどかった夏を越えた。ぶっちゃけこれなかったら今いたかなってくらい。たぶんジャニーズ外のアルバムいれてもやっぱり今年のベストアルバムに選出するかなあ。色々なアーティストからの提供曲とかメンバー作による楽曲とか収録順とかそういう技巧的な面でも高い完成度だと思うけれど、自分にとってはそれ以上に重要な意味を持ったアルバムだったし、この1枚にたしかに救われた日々があった。どうしてこのアルバムだったのかは今となっては理由も定かではないけれど、音楽ってそういうものだよなって思う。

 ■現場まとめ■

▽5月21日:Kis-My-Fts LIVE TOUR 2017 MUSIC COLOSSEUM@静岡エコパアリーナ二部

大混乱、大騒動のまま(いろいろな意味で)突入した今年のキスマイのツアー。倍率高いツアーだったのに盛大にディスなブログ書いてごめん。「愛ゆえ」にが強すぎた。このツアーは回を重ねるごとにいろいろと変更点が出ていたようなので、最終的にどんなかたちになったのかは来年のDVDで確認しようと思う。ただひとつ今も思うのは、キスマイはやっぱりドームが似合うよ。

▽8月5日:関ジャニ'sエイターテインメントジャム@ナゴヤドーム

ご縁あって参戦できることに。はじめての関ジャニ∞、凄まじかったです。バンドすげーなんじゃこのグルーヴ感ジャニーズって一瞬忘れたわやばいーからのアイドルかわいーしんどいーさすがジャニーズってかんじ。語彙力持たないおとなでごめん。「生きろ」泣いた…景色が開けていくように広がる声に細やかに感情が乗って振動して、スタンド後方までまっすぐに差す光みたいに届いた。あの不思議な感覚はちょっとなかなかない経験かもしれない。

▽10月13日:KAT-TUN KAZUYA KAMEMASHI CONCERT TOUR 2017 The ー〜follow me〜@静岡市民文化会館

さすが亀梨和也…KAZUYA KAMEMASHI…濃密な二時間。徹頭徹尾プロすぎて度肝抜かれた。一分の隙もない完璧なパフォーマンス、ステージングってああいうことを言うんだなと。MCや映像演出のときには客席に話しかけたり、ステージに寝っころがって一緒に映像観ていたりしてナチュラルなんだけれど、そういうものも含めてその日にしかありえない一公演としてきっちり完結している。だから終演後これ以上ないくらいに充足感に満ちた。亀梨くんはすべての公演で毎度全員を幸せにしているのだろうなあ。

▽11月21日:中丸君の楽しい時間2@梅田芸術劇場 シアタードラマシティ

 中丸くんの頭の中をそのまま再現したような舞台、という印象を受けた。他人の脳内は計り知れないけれど、ここは彼の思考や感覚が実に縦横無尽に忙しなく動いているのを垣間見ることのできる場所、のような、自由度の高いアーティスティックな面と緻密に計算されて理論的に繰り出される表現が混在しているような興味深い空間、時間。コンセプトは「自分が楽しいと思うことをひたすらやる」だそうだけど、それを実現しつつ細部まで考え尽くされているエンタメだと思った。パンフレットも抽象的だったり具体的だったりするイラストや写真表現、技法を使ったり、新川さんのイラスト等中丸くんのやりたいこと楽しいこと嬉しいことを盛り込みつつ、ファンの見たい聞きたい知りたい需要に応えきっているような内容に、感覚と計算がすごいバランスで成り立っている人なのかな、と感じた。

以上、現場は4回。キスマイに何度か入っていたことを考えると例年より少なめかもしれないけれど、今年は新しいものをいろいろ観ることができて楽しかった。地元よりも遠征が多かったなあ。車でなんなく静岡に行けるようになったし、はじめて「さわやか」のハンバーグも食べた。よく名前は聞いてたけど、あんなに街の中に点在する店だったなんて…(笑)ナゴヤドームはちょうど夏休みがとれて連休だったのもあって、前日の夜にグッズだけ買いに行ったりもして、あの日のあの奇妙な熱をもったテンションはきっとあの夏の日にしかなかったものなんだろうと今思ったり。こうしてひとつの事柄からできごとが幾重にも結びついていくのはやっぱりおもしろい。ジャニーズすきじゃなくても、関係ないところでもそういうことはもちろんあるんだけど、すきになったからこそ味わえてるものもあるって考えるとなんか楽しい。こうなっていなかった道を知ることはできなくて、こうなった自分しかわからないまま積み重ねていく人生の妙っていうか。や、なんかそんな壮大な話じゃなくていいんだけど「とりこぼしたくない」って感覚は年々強くなってる気がする。拾えるものぜんぶ拾ってわたしの人生って言いたいっていうか。いちいち大げさ。

来年はどんなことが起きてどんなことが待っているのかはわからないけれど、とりあえずわたしは「ジャニーズ」という楽しむ武器を持って2018年に突入していくのだな、とは思っている。がんばりたいことがたくさんあったし、これからもある。それに邁進しようとするとき、胸のどこかで力や癒し、ときめきをくれるジャニーズの皆さん!いつもありがとう!来年もよろしくお願いします!

 

 

 

 

おたく的備忘録①フェイバリットマンガオブザイヤー2017

すこし早いけれど、わたしの今年のおたく記録。題して「このまんががすき!2017わたし編」

あいかわらず書店員をしている。去年もこのエントリーで散々書いたから割愛するけれど、今年もさらに下降を辿る出版業界…でもいい作品はいろいろあったよ!ってことで今年も書いている。流行だとかおすすめだとかっていうより、個人的な嗜好に基づいて感想を思いつくままに述べる。

仕事がしんどい、逃げたいなどと毎度のたまわってネガティブをブログ上に吐き出しているだめな奴だけれど、書籍やコミックから逃げたいと思ったことはないし、嫌いになったこともない。なにがいけないか、なにが悪いかっていうのはわかっているんだけど、それを書きだすと自分への呪詛がすごいことになると安易に想像できたのでやめよう☆ただ、ひとつだけ言えることは、今年を振り返って「この時期がしんどかった」とかはあっても、どういう日々だったかほとんど忘れている。これが成長できない原因だなって呆れるけれど、逆になんとか前進できる要因でもある。

万一書店員をやってみたい方が読んでいたとして「しんどいんだ…逃げたくなるくらいなんだ…」って引いていたとしたら、それはちがうよ!本が好きなら楽しいと思う!ま、労働と対価とかそういう話には責任持てないけど…w

ふぇえ…おちんぎんもっとほしいよお…

毎度のごとく順位とかはなくジャンルごとに羅列。ジャンルはざっくり掲載誌に準拠しています。あと最後のほうにちょろっとアニメのことも書いています。

 少年マンガ

 憂国のモリアーティ【~4巻】

憂国のモリアーティ 1 (ジャンプコミックス)

憂国のモリアーティ 1 (ジャンプコミックス)

 

 作者にコナン・ドイルってあるとおり、「シャーロック・ホームズ」に出てくるらしいホームズの宿敵モリアーティ教授(知らなかった)を主人公にした作品。絵がきれいだったのと、裏のあらすじを読んでおもしろそうだったので3巻発売時にまとめて購入。舞台としては「黒執事」とおなじ1800年代後半。階級制度が敷かれた身分差の激しい大英帝国にはびこる「悪しき貴族」を排し、理想の国にするために完全犯罪を計画し遂行していくモリアーティ教授御一行。ちなみにモリアーティとその弟は貴族として生きているけれど、生い立ちとしては貴族ではないのよね。ときとして人殺しも厭わない彼らもまた「悪」でもあるけれど「正義」であることにも変わりがない。ダーティヒーローっていうのは、こう…その…だいたい最終的な局面でどうなるかっていうのがわりと想像できるので肩入れするとわりときついかなって…オルフェンズ*1で学んだ!でもこういう雰囲気やにおいすき…ホームズ通ってきてないからモリアーティ教授が本当のところどうなのかはわからないごめん。もちろんホームズとワトソン君も出てくる。

  ▽ROBOT×LASERBEAM【~2巻】

ROBOT×LASERBEAM 1 (ジャンプコミックス)

ROBOT×LASERBEAM 1 (ジャンプコミックス)

 

 ここ数年のわたしのど真ん中作品である「黒子のバスケ」の作者藤巻先生の新作。でもゴルフ知らない…ごめん。決まった回数よりもより少ない回数でボールをいれると良い、とかホールインワン知ってるくらいの知識…ゴルフ知らないので1巻出たときに買うか迷った。「3月のライオン」を迷ったときと同じ現象…個人的な傾向として、作家買いをしたくともどちらかと言えば内容を重視してしまうので、全然詳しくない分野だと読みこなせるかな…と考えてしまうところもある。が、読ませる展開はきちんとあるし、キャラメイクもあいかわらずいいなあと思いながら今のところは楽しんで読んでいる。三浦鷹山というライバルポジションのキャラは初見で「あおm…」ってなったけど。ただ、どうだろう。ゴルフダイジェストで連載中の「オーイ!とんぼ」や、青年誌の作品とはちがい、まったく存在しないわけじゃないけれど少年誌でゴルフというのはいささか…ってかんじもするし、能力系だとすると黒バスの焼き直しにもなりかねない厳しさはありそう。キャラありきだと女性には人気でやすいけどね…本誌を読んでいないので先行きがわからないけれど、コミックスは売れているほうだとは思う。12月に新刊でるよ!

 ▽ランウェイで笑って【~2巻】 

ランウェイで笑って(1) (週刊少年マガジンコミックス)

ランウェイで笑って(1) (週刊少年マガジンコミックス)

 

 158㎝だけどパリコレを目指すモデル志望の女の子と、デザイナーになりたいけれど家庭の事情でその夢をしまおうとしていた男の子が、全力で駆けだす物語。努力でどうにもならない部分があること、才能が現実に押し流されてしまうこと、人生にはそうやって選択できないことが往々にしてある。無理、無謀、現実を見ろなんて世の中にあふれているし、実際だいたいが悲しいかなそういうものなのだけれど、それでも全力で走るひとがすきだ。マンガ的?そうかもしれない。現実にはありえないかもしれない。少年マンガだから逆転があるかもなんてたしかにマンガでしか為せない。だけど現実的に無理だから、と走り出す前から足を止めたら「かも」にさえ辿りつけない。逆転があってもいいと思う、それはマンガだから。だけどなにより、結果がどうであれ、その力強い可能性の連鎖がみたいんだわたしは。

もしかしたら、それを見ているまわりのひとはしんどいかも。でもそういうふうに生きてきた、と言い切ることができるひとをわたしは愛しく思う。

スタート地点に持っていくまでの不可能を可能にしたからといって成功するかはまたべつの話なのだろうけれど。

 表紙がほんとうにきれい。これから作中に登場するであろうコレクションで発表される服も楽しみ。

  舞妓さんちのまかないさん【~3巻】

 去年の暮れ、キスマイが表紙を飾ったので購入したサンデーに第1回が掲載されていた。気に入って続きが気になっていたので購入してみたらやっぱりすきだった。舞妓さんになりたくて京都へ来て置屋に入ったものの、才能の面から舞妓にはなれないと言われたキヨちゃんがひょんなことからそこでまかないさんとして働いて、舞妓さんたちのごはんを作っている。やっぱりごはんはいい。ごはんを通して描かれる日々の営みはたいせつ。舞妓さん(花街では舞妓ちゃんと呼ぶみたい)もふつうの女の子だったり、あまり知ることのできない花街のちょっとした情報がわかるのもおもしろい。まえにおもしろそうだなあと眺めていた「ちろり」の作者さんってあとから知って、がぜんそちらも読む気になっている。

青年・一般マンガ編

  ▽とんがり帽子のアトリエ【~2巻】

 最高。順位がないと言いつつ「わたし編」第一位かも。「俺TUEEEEEEE」な転生とか、オンラインゲームを主軸としたファンタジーが流行していた昨今に於いて、それらとは一線を画す超正統派のファンタジー。魔法が人々の生活に根付いている世界で、魔法に憧れる主人公ココはふつうの女の子なので魔法使いにはなれない。だけどたまたま魔法使いキーフリーの魔法のかけ方をのぞき見したことから、幼いころにお祭りで露天の魔法使いから買った道具で魔法を使えることを知る。純粋な憧憬と感動で習得をはじめるココ。けれどそれが思わぬ方向へ事態を動かし、ココはキーフリーに弟子入りすることになる…があらすじ。

某読書アプリにも書いたんだけど、まず作画がすごい!!繊細で大胆な線に愛や夢、ぬくもりが詰まっていて読んでいるとわくわくして、こどものころにそういう気持ちで読んだ絵本のことを思い出す。作中に登場する魔法の道具が素敵すぎるし、「魔法はひとびとを幸せにするもの」であるべきなのがいい。キーフリー先生の他の3人の弟子(魔法使い。みんなキャラがすてき)とともに魔法使いとして成長していく過程を描きつつ、実はココに道具を売った魔法使いはハリーポッターで言うところの「闇の魔法使い」のような存在で、ココを依り代になにかを企んでいるストーリーが並行していて、今いちばん続きが気になる作品。グルメマンガではなくごはんが美味しそうなマンガは名作、と思っているし、けっこうそう言われていると思うけれど、2巻に料理シーンが登場してとても美味しそうな料理が描かれたのでその点からしてももうまちがいない。現状でも相当売れてるけど来年もこういう質の高いマンガにはさらに注目が集まってほしい。

  ▽燕のはさみ【~1巻】

燕のはさみ 1巻 (ハルタコミックス)

燕のはさみ 1巻 (ハルタコミックス)

 

 ここに貼りつけた画像では表紙のイラストの美しい色彩が表現しきれていなくてかなしい…大正時代、モボモガが闊歩する銀座でこじんまりとした理髪店を営む父親とその娘燕のお仕事マンガ。お仕事というか理髪師は職人なので職人マンガ。まず過剰とも言える大正のモダンな文化、空気が好きなひとにはたまらん作品だと思う(わたしだ)

技術を極めるというのは職人としてなによりたいせつなことで、その腕ですべてを為し得ていくには鍛練の積み重ね、そしておそらくそれに対する「愛」「懸ける」という気持ちなんだけど、理髪師という職はなにより相手あってのこと。そこには技術だけでなく「接客術」も大事な要素だったりする。細やかな気くばりや愛嬌、会話、触れ方、雰囲気や空間づくり…顧客がなにを重視し、なにを思い店やひと(ここでは理髪師)を選ぶのかというのは現代にも通じるのでは。そしてやっぱり全力でなにかに懸けて強く進むひとがすき。ジャニヲタにもおなじみ帝国劇場(当時)が作中に登場もします。

   ▽昴とスーさん【~1巻】

昴とスーさん 1巻 (HARTA COMIX)

昴とスーさん 1巻 (HARTA COMIX)

 

 ハルタミックスばっかりでごめん。とんがり帽子の白浜先生もハルタで描かれていた方だった。ハルタは良作多いからしかたがない。表紙をみるとこどもとぼしき男の子がなんと煙草を吸っています。あれ…これすてきなオネショタっぽいけどなんで…!?と思ったのだけれど実際はすこしちがう。これはSF(すこしふしぎ)なジャンルだと思うので、ここで種あかしをしてしまうのもあれだし、気になったかたは是非読んでほしい。作中に流れている空気感の純度が高くてすごく素敵なのです…ふたりのあいだに起こっていることは非日常だけれど、その純度の中で営まれるふたりの日常がまた良い。

あ、ハルタといえばたしか来年のハクメイとミコチ」(樫木祐人のアニメ化たのしみ。

  ▽姉なるもの【~2巻】

急に異色感があるけれど、今年のわたしには私の少年」(高野ひと深/双葉社アクションコミックスの影響で人生はじめてのオネショタブームが到来。

クトゥルフ神話にも詳しくないし、だから「千の仔孕む森の黒山羊」がどういう存在なのかも知らなかったし、作者の方が即売会で頒布されていた元々の作品も存じ上げなかったです。だけど、これよく売れるなーってぱらぱら見て、良さげだったので購入。家族がいない夕くんという少年が、引き取られているおじさんの家の蔵で夏休みに表紙のお姉さん(悪魔)を召喚しちゃったら、大事なものと引き換えに望むままを与えましょう、と。それで夕くんは「僕のお姉ちゃんに、家族になってください」と願うことから入院中のおじさんの家でふたりきりの生活がはじまるわけだけれど、このお姉ちゃん(千夜と本人が命名)かわいすぎます!!!人間的な生活を人間と送り、新しい世界に目を輝かせながら夕くんを可愛がる千夜さん。ことあるごとに元の姿が出ちゃうけどそれもまたご愛嬌。夕くんのモノローグで語る部分やなぜ蔵に魔法陣があったのか、かつて同じように人間と過ごしたことがありそうな千夜さんの描写など、明かされていないことはまだあるけれど、おそらくいつかは終わりがくるであろうふたりの生活がまさに夏の儚さのようで切なくもある。

普段あまり読まない傾向の作品、レーベルなので、まさに電撃的な出会いでした♥

  ルポルタージュ【~3巻】

これはねえ、けっこうすごい作品だと思っている。

若者が恋愛をせずにマッチングサイトにおいて「人生の共同経営者」としての結婚相手を見つけることが主流になっている近未来の日本が舞台。恋愛を経ての結婚がスタンダードだと定義すると、孤独な男女が増える。恋愛というプロセスが果たして本当に良いものなのか?恋愛結婚がブームだった世代の夫婦だって不倫、不仲、DV、セックスレス…面倒や痛みをともなうそれって幸せなの?という新世代に「それなら恋愛飛ばして結婚しちゃおう」が一般化している。そんな共同経営者を見つけるための「非・恋愛コミューン」なシェアハウスでテロ(も日常化している)が起きたところから物語ははじまる。記者である主人公はその被害者たちのルポルタージュを書くための取材の中で恋に落ちる。いや、まずすごいなと思ったのは、2033年が舞台の設定なのだけれど、その頃にはまさにそんな時代になっていそうな気がすること。実際恋愛がめんどうだと思っている若者も多いのでは…

だけど恋に落ちるときというのはそういうすべての理屈を超えているので、一度はじまってしまえば止められるものでもないし、五感が震えるほどのしあわせと同時に痛みや悲しみ、自分の醜さを視ることにもなる。だけどそのぐちゃぐちゃなかんじがまさに生きているということでもある…濃く深くつながる、反発しては溶け合う、そういう生身のコミュニケーションを求めることは時代が変わっても人間が人間であるかぎり絶対になくならないし、どんなかたちにせよ、関係性を築くことでそこになにかしらの感情がごく自然に生まれてしまうことは否定できないのだ。

飛ばして結婚したけど恋人がいる、非恋愛のパートナーシップを前提としていたけど「抱きしめたい」と思う一瞬があった、そもそも恋がどんなものかわからない…いろいろなひと、いろいろな関係、いろいろな感情が出てきます。彼らの立っている時代背景もまた、このさき日本に訪れるかもしれない世相に感じて妙にリアリティがある。

  あげくの果てのカノン【~4巻】

 去年の「わたし編」第一位。SF×不倫マンガ。あらすじ含め去年も色々書いたので端的にまとめると

  • 主人公かのんは高校の時からずっと境先輩がすき
  • 境先輩は結婚している
  • 街はゼリーというエイリアンに襲われていて、境先輩はそれと戦う機関で活躍しているが、負傷するたびに「修繕」という修復によって記憶や嗜好、人格に影響が出る。
  • かのんがすきだった先輩はもうどこにもいないのにかのんは先輩がすき。じゃあすきってなんだ。どこから来るんだ。変わらない気持ちの根源はなんなのか?そもそもそんなもの存在するのか…

うーんあいかわらずぐさぐさ刺してくる。

去年以上に、この作品を読むともうなにがなんだか、どうしたらいいのかわからなくて発狂しそうになる。「すきってなに」とか「心変わり」とかそういう、答が出ないまま言葉の欠片だけが思考の海に沈みこむような問いへの誘いだけでなく、「先輩だけを追い続ける」視座で人生が進み、景色が完結していくかのんの世界に、かのんや先輩を取り巻くひとびとが映す世界が多角的に展開されることによって、その恋がいかに残酷で傲慢であるかということがありありと浮かび上がるからだ。その世界のみで閉じて生きてきたかのんがそれを垣間見てなにかを感じても、彼女はその純粋で透明な凶器であり狂気を捨てない。どうしたらいいんだわたしは。もう正直読むのしんどくなってきた。かのんの恋が近しい誰かだけではなく世界を壊していく。わかっていてもそれでもかのんはその一途な恋を捨てない。誰もが幸せでありたいと願う。誰もが好きなひとに選ばれたいと切に願う。現実がそれを許さなくても、感情は生き物だ。恋こそが人間が一番手懐けることができない感情なのだと思えてくる。

作品自体の露出(著名人のレビューなど)も多いし、米代先生も「セブンルール」に出演されていたけれど、弾けている層がかなり限定されているようなイメージなので、来年こそはもっともっと広がるといいなと願いつつ、刺さる層が鋭角なのかもしれないとも感じる。だめなひとは徹底的にだめだろうけれど、すきなひとには暴力的なまでに魅かれざるをえない作品だと思う。胸の真ん中の奥底のやわらかくて無防備で隠しておきたいところを、むきだしにしたうえでとんでもなく容赦なくぐちゃぐちゃに掴まれる気がしてもこの物語の果てを見るまで死ねないとすら思うわたしは、おそらくこの作品に憑りつかれている。とりあえず安易な実写化で消費されるなんてことにだけはなりませんように…夢でみたんだ。「あげくの果てのカノン」が実写化されるって。

  ▽もしもし、てるみです。【~1巻】

 「花のズボラ飯」の先生の新作。インスタ映えとかキラキラ女子とかそういう言葉が飛び交った2017年のネット社会に疲れてしまっているひとにぜひ。

ネットで簡単になんでもできちゃう、繋がれちゃうミライフォン(スマホのこと)に対抗して通話機能のみを搭載した携帯電話を販売する「もしもし堂」の販売員(てるみさん)、サポートセンターのおしゃべり好きなスタッフや、ユーザーを取り巻く日常まんが。ちょっとえっち♥な場面もあるけれど、時に刺さるセリフもある。

ネットは便利だしネットがないとやっぱり困るし現にわたしも今、ネット上でブログ書いてるんだけど、じぶんの頭や足で確かめなきゃいけないこともあるかもね。せっかく生きてるんだから五感をフルに活用したい所存。

 □少女マンガ編

 ▽僕のジョバンニ【~2巻】

僕のジョバンニ 1 (フラワーコミックスアルファ)

僕のジョバンニ 1 (フラワーコミックスアルファ)

 

 チェロの音っていいよね。

海のある街でチェロを弾く主人公と、海難事故によりその海辺へ流れ着いた少年。ふたりがチェリストになるまでのお話でしょうか。もしくはデュオとして。1巻時点で主人公鉄雄は小学生で、まわりにチェロを弾くような同級生はいなく、皆ゲームやらスポーツやらに勤しんでいる中、孤独に鍛練し東京のコンクールで賞をとるような少年であり、流れ着いた少年郁未(ハーフ)は投げ出された海で鉄雄のチェロの音に導かれるようにして奇跡的に浜に辿りついたという経緯がある。そんな経緯から、郁未は鉄雄の音に魅かれている。この街でひとりでチェロを弾く鉄雄の孤独に触れた郁未はあるとき、チェロを教えてくれ、と頼む。で、これがふたりの少年の今後を捻じ曲げる。音楽の才能というのはおそらく、技術だけではどうにもならないものがかならずあって、もうそれは生まれ持ったものでしかないむごさがつきまとうものでもある。かといってそれがある者がその道に進むとも限らず、関係のない場所で一生を終えることもあるだろうけれど、なんらかのトリガーによってそれが解放されたとき、それまでの環境も人間関係も根底から覆すようなつよさがあるんだろうな…圧倒的に無邪気で無慈悲な才能を前にして、じぶんが戦う武器はなにか。生きる道は。そこにたどりつくこともまた才能のひとつなのではないかと思う。そしていつかふたりの音が共鳴したとき、みたことのない世界が広がるのではないだろうか。

 

 以上12作品。若い作品を中心にしたけれど、あいかわらず続刊が良かった作品もいろいろあった!こう、並べてみるとけっこう偏っているというか、似たようなものあげている気がするな。もともとなのかもしれないし、今年の気分がこうだったのかもしれない。

いろいろなマンガが毎日毎日出るんだけど、というか出過ぎ問題なんだけども、ジャンルもレーベルも多岐に渡るなかでこうやってピンポイント的に「すきだ!」と思えるあたらしいものと出会えるのはやっぱりいいなって思います。マンガが好きなひとはたくさんいるだろうから、みなさんそれぞれがそんなふうに出会えるポイントを来年もがんばって攻めて守って作っていこうと思っている次第です。まあ電子書籍でもいいんだけどさ…でもたくさん並べられたものから手に取って眺めて吟味して…っていうのもよきかなって。

 アニメのほうは大した活動していないので時系列順にさらっとまとめると

▽1月…遅ればせながらユーリ!!! on ICEをプライムで一気観してしんどすぎてしぬ。GWごろまで解釈沼にはまりすぎて深淵をさまよう。

▽3月…機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」2期がいろいろな意味でしんどすぎてしぬ。最近ニコニコにあがっていた「異世界オルガ」*2をたまたま見てしまった。笑った。ネタ化されているけれど本当のオルガは切実なのでよくよく考えるとなんか複雑。

▽3月…「劇場版 黒子のバスケ EXTRA GAME」を観に行き、完結を突きつけられてしぬ。内容としてはコミックで読んでいるので、キセキにおける展開がしんどいのはわかっていたことだけれど、藤巻先生より追加されたオリジナルエピソードがまさかの結末。本当に終わっちゃった。

▽4月~6月…実生活の不調によりあまり記憶がない。なにがアニメ化してたっけ?あーけもフレの大爆発がこのクールかな。観てないですけど、歌はすごく好きだった(ありがちなにわか)

▽7月…「活撃 刀剣乱舞の作画にびびる。映画かよ…ufotable賭ケグルイ大好きだから観たかった。ボールルームへようこそも観たかった。縁あって最近コラボカフェに行ったらやっぱり観たくなった。気になるのいろいろあったのに屍化。

▽9月…突然「劇場版マクロスFイツワリノウタヒメ~」「同~サヨナラノツバサ~」を観返し、シェリルの歌で息を吹き返す。シェリルさんかっこいい…「どうせ死ぬなら舞台のうえよ!」抱いて…

オベリスクがすごく好き。「あと1秒生きるために 魂の背中押せ」のワンフレーズにこれまでどれだけ救われてきたかわからない。今回もだ。

▽10月…3月のライオン」2期、毎週泣きそう。そういや13巻よかったなあ。二海堂くんの力強い命のきらめき…きらめくからこそそこに落ちる影…生きてる、ってかんじで…

だいたいしんでてめんどくさいやつ。ポジティブに捉えるとしたら、それくらいダメージを受ける作品と出会うべくして出会ってるかんじかなあ。今期観るアニメは何本…って見方をやめたので、すっごい鋭角だけど必要なものにしぼってるんだと考えよう。

 来年の情報もいろいろと出てきて、アニメの界隈において気になるのはやはり過去の名作の再アニメ化だったり、初のアニメ化だったり。最遊記とかグルグルが決まった頃に、「いや、これ封神演義とか幽白とかの再アニメ化来ちゃうんじゃないのwそしたらしんじゃう世代が出る」とか笑ってたらほんとに封神演義来てしまった。わたしは幽白もあるんじゃないかって思ってるんだけどね。過去の名作にスポットが当たるのは、視聴率の良かった作品の続編を作るようなドラマ業界とおなじ理屈なのか、それとも今の技術でより世界観の表現をしたいという制作側の熱なのか、それとももっとおとなの事情なのかははかりかねますが、これだけアニメが乱立している昨今に於いて、結局本物だとか名作だとかそういうものしか生き残れないような時代になっているのかもね。とか書いていたら「BANANA FISH」までアニメ化するという。制作ラインナップからしてすでに新たな層への沼となる完璧な体制にも思えるけれど、そういうのは置いておいて、あの作品は時代にはまるんじゃないかなあ。

コミックもアニメも娯楽だから、気楽に楽しめるものであることも必要だけれど、カルチャーであり創作だからこそ、そこに文学性だとか精神性だとか社会性だとか思想だとか、そういうものを深く織り込んだ作品もたくさんあって(娯楽作品にそういうものがないと言っているわけではない)たとえばまんがといえば少女時代に読んだものしか知らなかったわたしの母親のようなひとが「3月のライオン」のアニメを観て深く感銘を受けるようなこともあったりするので、来年はよりそういう作品に浸かれたらな、とか考えている。他人(=作者)の想い、熱、思考を自由に受け止め、自由に考え、じぶんのなかに落とし込む。もしかしたらそれはじぶんのなにをも変えないかもしれないし、それにたいして傷ついたり否定的な考えを抱くかもしれないし、いつのまにか忘れ去ってしまうのかもしれない。けれどいつかそれをとりだしたり、はっとするときがきたり、あとあとじんわりと広がりだしたりすることだってあるかもしれない。表現することは自由であると同時に、どう考え、どう受け止めるかも自由だ。そしてそれを止めることなく考えつづけなきゃ、と最近よく思う。情報と消費のスピードが早い時代。だけれども消費されるというステージに乗らなければ勝負することもなかなかかなわない時代で、そんなふうに胸を揺さぶり、考えること、想うことを与えてくれる作品をわたしはいつだって探している。待っている。

 

 

 

担当というものを持つことをやめる選択。

もしも人生に「精算」というものが必要だったとして、仮にそれが今のわたしの人生に起こっているとして、自らも7月にそれを書いていて、それを占いにも指摘されて驚いていたとしても、こういうかたちで為されるとは思いもよらなかった。

べつに精算しようとして無理にしたわけでもなければ、占いに感化されたわけでもなく、ごく自然な流れであることは疑いようもないけれど、ここ数年、揺らがなかったものが根底から覆るような事態に、わたし自身がついていけない。だって2ヶ月くらい前まで重々しくしてたじゃーん、っていう。

そもそも「担当」という概念は、ジャニーズの世界に飛び込んだころからずっとどういうものか向き合ってきて、やたら重苦しく考えたりもしたし、いや、単純に一番好きなひとのことを指せばいいのでは?と思ったりもした。理解できたような気がした瞬間は確かにあったし、だけどそれがまったくわからなくなる日もあって結局、概念でしかないそれに答は出ないままだし、確かさと不確かさのあいだを揺らいでは着地することなくずっとわたしの中で宙ぶらりんになったまま掴めずにいる。担当ってなんだろう。誰担か、ということを定義しようとするとこんなにしんどいのはなんでなんだろう。担当だからこうでなきゃとか担当だからこう思わなきゃ、とかべつにそんなことしなくてもいいんだろうけど、わたしの性格上なのかなんなのか、そうしなきゃいけない気になって、いつのまにか自分で勝手に身動きとれなくなっていた。それだけはわかる。自由にすきでいたいのに拗らせためんどくせえ。

ジャニーズを好きな世界に身を置く以上、担当を是が非でも決めなきゃならないと言うなら、あくまで藤ヶ谷担を名乗り続けるのかもしれないけれど、それも失礼なはなしなのかな、とも思うし、たぶん今のわたしはキスマイ担を名乗るほどの者じゃない。ファンであることは確実だとしても。じゃあグループとしてはどこ担なの?と訊かれても答えに窮する。降りるグループもない、かといってジャニーズは大好きなままなのであがることもできない、どうすればいいわけ!?と自問自答した結果、担当を持たない、という選択肢もあるという結論に至った。

藤ヶ谷くんが大切にするKis-My-Ft2というグループをいちばんに愛したいよ。気持ちの上ではね。でも今はたぶんちがうかなって。なにが、と言えば、うーん。ひとつだけ明確なことはあるけれど、それがすべてとは言えない。だけどきっとこれはわたしの問題でそれのせいではないんだろうけどね。いや、そもそもなにかのせいにするのは良くない。なにも誰も悪いわけじゃないからやっぱりわたし自身の変化としか。

だけど、たとえばもしもこの先、わたしがキスマイのライブに行ったとして(ファンクラブやめるつもりはない)担当でもないのに当選してなんやこいつ、って思う人がいるかもしれないけれど、おそらくこれからも通いはしないだろうが当選できれば行く。シングルやアルバムを買って聴くだろうし、何か書くかもしれない。ただ、なんというか、担当としての視座ではなく、フラットな地平からキスマイというものを一度冷静に眺めてみたい。

とはいえ結局のところ、ジャニーズを愛している地平なので果たしてフラットであるのかはいささか疑問でもある。なんというか誰、とかではなく、もはやエンタメの一大ジャンルとして定義してもなんら問題なかろう「ジャニーズ」を担当していたい(ただのDD)。ジャニーズはすごい。いろいろなかたちがあってそれぞれの表現がある。その魔力からは抜け出せないままだ。

だけどもう気分でいいかな。わたしに今響くもの。わたしの人生に今必要なもの。それをそのときに選びたい。なんかもうロックがすきで、今はこのバンドの音楽がわたしの背骨です、だけれどもとりあえずまずなによりロックがすきなんです、みたいなかんじで、ジャニーズがすきでもいいんじゃないかなって。ミーハーかよ、とかお前誰担?とか自問自答は続くけれど、なにか、こう、自分を縛り続けるのに疲れた。潔く、所謂オンリー担としてキスマイを身体に落とし込むことはできない。だってべつに藤ヶ谷くんだけがすきなわけじゃなくて、藤ヶ谷くんにしか興味ないわけじゃないんだよなー。ややこしくて難しい。そうしてるのも自分なんだけど。いちいちそうやって重々しくなることもなんだかな。たかが趣味なのにね。

わたし自身が夏のある日を境にとつぜん重さがなくなって、なんなら今、軽くてどこへでも走り出せそうなので、逆に引っ張られるもの、なにか鬱々と考えてしまいがちなものをちょっと置いていきたいかなとかそういう。

たとえば生きるスピード、心のチューニング。わたしなりのそれらがあって、それがばしりとはまっていたり、合わさる瞬間やそのとき、に吹く追い風、みたいなものを体感するのが一番シンプルだなあと。ここ数年、たぶんすこしでも自分に重なったものをぜんぶ抱えて進んできたら、ずいぶん重くなってしまった気もするのでまあここで1回リセット。リセットして、フラットに眺めてまたキスマイに出会えたら、そのときはもう一度担当って言うかもしれない。

 とかいって来月や年末にそう言ってたら笑えるんだけどね。だけどそれならそれでまた新しく。

本日は結成日だそうで。

前回のブログで

 

rubyk.hatenablog.com

「すきなものを減らす(部屋の物を減らす)」「ただしく泣く」という項目を定めていたのだけれど、『2017年下半期 恋と運命』みたいな占いの雑誌を見ていたら"良い運の切り替わりサイン"として「無性に物を捨てたくなる」「人前で泣く」って文言があって震えた。いや、占いだし。厳密に言えばちょっと違うし。でもびっくりしたよねーーーー

蠍座は秋から12年に一度の大幸運期らしいけど、どうなるんだろうね。こうもしょっぱい毎日だと期待したくもなって占いの雑誌やサイト読み漁ってる。そこに向けて不要なものが精算されていくって書いてあるのはなんか思い当たる節もけっこうあるんだけどなー自分でも言ってるし。いいことは信じていくスタンス。

ずっと仕事行きたくない症候群が続いてて逃避のように毎日ジャニーズ観て睡眠時間削って結果寝不足つらい、って悪循環!社会人的にダメなのはわかってるけど人間保つのが先だしな。だけどずっとは続かないだろうし、軽く期待しておこう。

それはさておき。

んーまあびっくりですよね。突然番協メール来るんだもん。金曜日は「未満都市」観てー「LOVE LOVEあいしてる」観てーなんて思っていたら突然放り込まれるMステ…しかも「まえあし」ってなんじゃーい!!!!いや、わかるけど。ひらがなにするとかわいいけど。え、そんな。「俺の足に2回キスしな」の足って四足歩行だったんですか????そんな。新事実。だけど前も後ろもおなじように地面に踏ん張ってからだを支えていることは事実以外のなにものでもないですからね。いや、そういう話じゃない?最近のわたしはキスマイをすこし遠めから見ているので最近のキスマイが考えていることがよくわからないごめん。たいぴが(おそらく)スイッチにはまってることくらいしか…イカやんのかな。暇かよ。んーだけどちょうどいいかもしれないなとよく考えている。そりゃグループとして上り調子なのはいいことだけれどずっとそれは続くわけないから。追い風がないときこそチャンスが増えるというか…時間が空いていればこそ色々なものに触れる機会も増えてそれが大きななにかに繋がるかもしれない。忙しいことは良い側面もあるけれど、忙しすぎると余裕もなくしがちで新しい芽も萌さない。わき目を振らずただただ突っ走った結果、カラカラになってしまって伸びしろを失ってどこかで止まってしまうくらいなら、たとえ一度へこんでもじわじわと進んで高くジャンプアップするチャンスを虎視眈々と狙ってたほうがなんかかっこよくないですか。

だけどまあほかのメンバーがオフだったならキスマイで出れましたよねっていう。だけどそういうことでもないんだろうな。

わたしは運営が今更格差を掘り返しにきているとは考えていないですけど、色々な意見が散見されているあたり一筋縄じゃいかない事態だったっぽいね。そりゃ当たり前か。

藤ヶ谷くんを応援している身としてすごく個人的なことを言うと、「舞祭組のスタンスがああいうふうにある以上俺ら3人は当たり前にかっこよくなきゃいけない、1位をとり続けなきゃいけない」みたいなことを藤ヶ谷くんは言うじゃないですか、それがもう、しんどいって思ってて、いや、言いたいこともその想いもなんも間違ってないんだけど(モンペ)それがいつしか呪縛みたいになってないかな、彼の表現の可能性や幅を奪ってないかなとも思えて、そういう発言を見ると一時期勝手にしんどーーみたいになってた。わたしは千賀・宮田・横尾・二階堂担ではないので、彼らの担当の方が舞祭組をどういうスタンスでとらえているのか、この先どうなっていってほしいと考えているのかわからないし、そもそも格差があったという事実は変えられない以上隔たりがすごくてわかりあえなさは平行線だろうし、それぞれで色々な意見があるだろうなと思うのだけれど、わたしは、各々の仕事の種類は違えどもファンになったばっかりの頃にはっきりと目に見えていた衣装やPVや歌割りに於ける格差というものは今は特別ひどく感じていないし、だとしたらもう3:4でわけるとか(兄組・弟組はべつにあってもいいけれど)そういう名乗り方をするのとかはやめて「Kis-My-Ft2」のみを名乗ればいいのにと思っていた。そもそも7人でかっこよければいいのだから、てかかっこいいし、みんなでかっこいいキスマイを背負えばいいのに、バランスが崩れてきてキスマイってなんだろうって状況になってたと思うんだけどどうなんだろうね。わたしは藤ヶ谷担だからこう、まあ、難しいんだけどね…

あのときは戦略として必要であったかもしれないしあたらしい可能性に満ちていたかもしれないけれど、10年まであと5年、そろそろ可能性のすべてをみんなでわけあいましょうよ、と思うんですよねーーーーー

 や、べつに今回のこと、ぎゃー!!とはならなかったけれど、否定するつもりもないし、これもキスマイにとってあたらしい可能性や武器のひとつだというならそうなんだなってただ受けとるけど。ただ「Touch」はともかく「FIRE!!」はジャーニーで完結したと何度言えば。わたしの中では、だけど。だけどまあなんかMステじゃ何かが足りない!歓声や!となって久しぶりにジャーニーひっぱり出してきて観ましたけどね。あれは最早宗教…ドームのど真ん中でたったふたりで成立させることのできる宗教…あのころはすごく藤北厨だった。今はそうでもない。なんかフラット。でもかなり雰囲気変わったよなーと思うあのふたり。でもつよい。これはほんとうに今でも。

ジャーニーみたあとなんならワールドとアイスクリームも観たんですけど、去年はやっぱり近年稀に見る最高の夏だったなあって思い出して、直前まで入院していたりしてきつかったことはあるんだけど、ライブ一本の思い出だけで記憶をこんなかたちにできるんだなってことを思い出せたのが一番の収穫だった。だから今現在きついことも来年くらいには今の悩みなんて実感として痛みを伴わないくらいのものになっているんだろうなってすこし前向きに思えて、結局今回も藤ヶ谷くんに救われてしまった。やっぱりわたしの今にはキスマイが必要だ。「いいね!」からの「レッツゴー!!」のコンボでもきこーっと。無意識に笑えてなんか元気になる最強のコンボだよねーーーーーー

12年前に今日、かたちが生まれたんですね。そうかーーーわたしが若さのみを拠り所にしてちゃらんぽらんな生活を送っているさなかに、彼らはすでに将来がかたちになりはじめてたんだな。あのころじぶんがイメージしていた将来のすべてがちがうかたちをしているし、そもそも人生なんてそういう流動的なものである中で彼らはずっと継続してきたんだね。変化し、時には現在地を飛び出す道を選んでまた一から再構築できる可能性だって選択できる人生に於いて、継続してくことのほうがむずかしいと思うんだよ。すごいね。どんな道を歩むかという選択にただしいとか間違っているとかはないけれど、彼らが色々なことを越えながらずっと続けてきたその道がこうして世界の片隅でひとりの人間をたしかに救っているという事実(もちろん何万人って数のファンはいるわけだけど)は存在しているんだよ、って知ってくれなくてもいいけど、でもあるんだよ、たしかに。